巨人・阿部が400本塁打達成、捕手としての評価をつけると…【柴田勲のセブンアイズ】

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 巨人・阿部慎之助捕手がプロ通算400本塁打を達成した。「打てる捕手」の面目躍如で、大したものだ。まずは「本当におめでとう」と声をかけたい。

 今年プロ19年目の40歳。プロ野球では通算19人目で巨人では王(貞治)さん、長嶋(茂雄)さん以来3人目、捕手では野村(克也)さん、田淵(幸一)以来、3人目だ。2000本安打も達成しているし、快挙という言葉がなによりふさわしい。

 私、実は坂本勇人の200本塁打よりも、阿部の方が早く達成すると見ていた。だが、出番は代打がメーンで、あと「1本」に苦しんだ。(注1)

 先週、私は阿部をもっと使うのも1つの手だと強調した。オープン戦中盤に左足を痛めたこともあって走塁面での不安はあるけど、阿部が打線にいるのと、いないのでは違う。5~7番あたりに入れば相手投手は怖い。2、3打席くらいで交代すればいい。

 記録を達成した試合でも五回に代打で打席に入った。投手は警戒するあまり、ワンストライクから4球続けてボール球で四球となった。得点には結び付かなかったものの、チャンスを拡大させる四球だった。元々、選球眼はいい方だが、これだって阿部の顔だろう。これが大事だ。

 元々、打撃が高く評価されての入団だった。私は阿部の入団から3、4年経った頃、早く一塁にコンバートすべきだと提言していた。捕手は重労働だし、ケガが多いポジションだ。しかもリード面でも気を遣う。一塁手ならば打撃をもっと伸ばせる。もったいないと思っていた。でも代わりになる打撃力のある捕手が見つからなかった。最終的に阿部はパワーあふれる打撃力を見事に開花させて、捕手としても勉強を重ねて成功を収めた。

 私が知る限り、捕手での評価は1番目が野村さん、阿部が2番目となる。3位は古田(敦也)だ。

 だけど、阿部がもし一塁手に早く転向していたらここまでで本塁打を500本打って、安打数は200~300本は増えていたと推測している。

 今年、阿部は4年ぶりに捕手での登録となった。

 周囲からは最後の花道を捕手として飾るためではないか。こんな見方もあるようだ。そのへんのことは詳しく分からない。だが、原(辰徳)監督はベンチに〝捕手の目〟が欲しかったのではないか。

 阿部は今季の目標を「スタメンで100試合以上」と立てていたという。だが、いまのところ捕手での出場は1試合もない。左足のケガの影響もあるし、40歳だ。当然ながら全盛期に比べると、体力はガクンと落ちている。気力が充実していてもそうそう戦えない。

 しかし、阿部が捕手としてベンチにいれば出場できなくても大きな戦力になる。捕手の立場から投手たちにはもちろん、野手陣、さらには小林誠司、炭谷銀仁朗、大城卓三らの捕手陣にも遠慮なくアドバイスを送ることができる。これが内野手登録なら、さすがに立場上しづらい。捕手登録は原と阿部の間でのア、ウンの呼吸があったのではないか。

 4日からは交流戦が始まる。指名打者が使える。阿部は、プレッシャーからも解放されて伸び伸びできる。出番増で、巨人にとってますます大きな存在になっていくと思う。

 その巨人、首位・広島とのゲーム差が4・5となった。先週、1、2ゲーム差で食らいついて欲しいと記した。苦しい。2日の中日戦で山口俊に勝ち星がついたけど、それまで10試合連続で先発投手に白星がなかった。

 腰痛でリハビリ中の菅野智之の復帰待ちとなるが、先発陣を含めた投手陣の再整備が必要だ。とにかく菅野、山口が先発する試合では必勝を期し、その谷間を投げるクリストファー・メルセデス、テイラー・ヤングマンらの時に白星を拾っていく。これを徹底する。

 野手では坂本が好調を維持して交流戦に入るのは大きい。丸佳浩とともに得点源となっている。その分、4番の岡本和真が気がかりだ。打率が2割5分前後で、本塁打も二ケタにいっていない。少しよくなっては落ちる。また、少し良くなっては落ちる。この繰り返しで、本人も悩んでいる。

 岡本にとっては今年が勝負だ。昨季は素晴らしい成績(注2)を残したが、2年続けてこそ認められ不動のものとなる。壁が厚くて高いほど越えれば得るものは大きい。なんとしてでも乗り越えてほしい。

 巨人、広島にこれ以上引き離されるわけにはいかない。幸い、交流戦をそれほど苦にしていない。(注3)

ここが秋に向けての踏ん張り所だ。

(注1)今季は24試合に出場27打席、7安打(本塁打1本、二塁打1本)、打点5、四球5。〈3日現在、51試合消化時点〉

(注2)全143試合に出場。打率3割、本塁打30本、100打点をマークした。

(注3)過去14年で170勝157敗9分、勝率・520。

柴田勲(しばた・いさお)
1944年2月8日生まれ。神奈川県・横浜市出身。法政二高時代はエースで5番。60年夏、61年センバツで甲子園連覇を達成し、62年に巨人に投手で入団。外野手転向後は甘いマスクと赤い手袋をトレードマークに俊足堅守の日本人初スイッチヒッターとして巨人のV9を支えた。主に1番を任され、盗塁王6回、通算579盗塁はNPB歴代3位でセ・リーグ記録。80年の巨人在籍中に2000本安打を達成した。入団当初の背番号は「12」だったが、70年から「7」に変更、王貞治の「1」、長嶋茂雄の「3」とともに野球ファン憧れの番号となった。現在、日本プロ野球名球会副理事長、14年から巨人OB会会長を務める。

週刊新潮WEB取材班

2019年6月4日掲載

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