フジ「遠藤龍之介」新社長が語った父・遠藤周作 就職決定時の忘れられない言葉

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8歳の子供の作文にケチ

 そんな父でしたが、作文を書いていて怒られたことがあります。小学3年生の頃だったか、遠足で埼玉県川口市の安行植物園に行った時、感想文が宿題に出ました。ダイニングで、原稿用紙を置いて、“きのう安行のしょく物えんに行きました。お日さまがカンカンてって暑くてとても大変でした”みたいなことを書いていたら、後ろに人の気配があった。振り向くと、父が怖い顔をして見ています。“どうしたの?”と尋ねると、“お前は何を書いているんだ”と聞かれました。“作文の宿題だよ”と答えると父は、“さっきから見ていれば、汗がダラダラとか、お日様がカンカンとか書いている。暑いという表現をするのに、そんなことを書いても伝わらない。暑いと表現するには、日陰の涼しさを書かなければ、分からないじゃないか”と怒鳴ったのです。そんなこと、小学3年生の子供に書けるわけがない。泣いた覚えがあります。もしかすると、自分の子供の文章に関心があったのかもしれませんね。うまくなって欲しいというより、そういう表現、見方を分かって欲しいという気持ちだったと思います。でも、普通は8歳くらいの子供の作文にケチをつける父親なんていないわけで、そういう意味でもユニークな父親だったと思います。

 旅行には何回も連れて行ってもらいましたが、昭和40年頃、一度だけ小説の取材旅行に同行したことがあります。『沈黙』の取材で長崎に隠れキリシタンの取材に行くとき、父は母に“息子を連れて行きたい”と言ったようです。小さいからまだ分からないかもしれないけど、自分が小説を書く時にどんなことを考えているのかを、見せてやりたいと思ったのでしょう。取材先では漁村の古い家の奥に隠されたマリア観音像をじっと見ていたり、海岸線で車を停めて浜に行き、いつまでも戻ってこなかったりしました。私は幼かったので、時間を持て余すこともずいぶんありましたが、その内容について父は私に丁寧に説明することはありませんでした。恐らく取材している父親の姿を見て、何かを感じるんだぞ、ということだったと思います。

 その『沈黙』の取材で、現在『遠藤周作文学館』が建っている長崎市外海地区に行った時、水平線の彼方から宣教師を乗せた船が来るイメージが見え、『沈黙』の構想が固まったと言っていたようです。

 私が本を読むようになったキッカケは、小学4年か5年の誕生日でした。前年までは、誕生日にはおもちゃを買い与えてくれていたのですが、その日の父は、“今日は特別なものをプレゼントしてやる”と言って私を駅前の本屋に伴いました。そしてツカツカとレジまで歩いていき、店の主人に、“私は物書きの遠藤と言いますけど、これは私の息子です。これからこの子が来て本を買う時は全部私が払いますので、請求書を回して下さい”と言いました。当時の私と言えば、少年サンデー、少年マガジンなどの漫画雑誌ばかり読んでいて、母親から“漫画ばかり読んでいないで勉強しなさい”と言われていたものですから、このプレゼントは嬉しかった。とにかく父のお墨付きで漫画が読み放題になったわけですからね。毎日のように本屋に通い、漫画を買い漁りました。ところが、今と違い当時はそれほど種類があった時代ではなく、すぐに読み切ってしまった。すると棚には活字本がある。そこには家によく来る作家の名前がありました。“あ、これは北(杜夫)のおじさんの本だ”と見つけて買ったりしているうち、活字の本を読むようになったのです。今考えると、父の狙いはそれだったのだと思う。

コルセット姿で記念写真

 そんなことがあって、ユーモア小説や純文学を読むようになりました。父の本も読みましたが、幼い頃から第三の新人と呼ばれる作家の方々が家に来たり、交流がありましたので、“これはあの人の本だ”というように読むようになったのです。中学生ぐらいになると一番分かりやすいのが、北杜夫さんの本でした。『船乗りクプクプの冒険』などを狂喜乱舞して読んだ思い出があります。

 家には北さんの他に劇作家の矢代静一さんなどもよくいらっしゃいましたし、父が『三田文学』の編集長をしている頃は、学生さんがたくさん家に出入りしていました。夏になると、彼等を軽井沢の別荘に連れていくのです。確か、私が13、14歳の頃、軽井沢からの帰り道、学生の運転していた車が前の車にぶつかってしまったことがありました。2、3日経つと、父も私も首が痛む。病院に行くと、鞭打ちで2人とも首にコルセットをはめられてしまって。帰り道、父は何を思ったのか、“2人でこんな格好をすることは滅多にないことだから、銀座で記念写真を撮ろう”と言い出し、写真館に行って並んで写真を撮りました。僕は鞭打ちになったことがショックでしたが、何かギャグみたいで笑っていましたね。車をぶつけた学生に対して、“気にすることはないんだよ”というメッセージを送る意味もあったのだと思います。

 私が高校生になり、色気付いてからも、父には随分いたずらされました。当時は携帯電話のない時代。ガールフレンドから家に電話が掛かってくることがあります。父は物書き。書斎には電話がありましたから、遠藤家に電話が掛かってくると、父が出る確率が一番高い。“鈴木と申しますが、龍之介君いますか?”といった電話に父が出ると、“ああ、先週末、息子と箱根に遊びに行った鈴木さんですね?”などと言うわけです。でも箱根になんて行っていないから全くの作り話。彼女は別の女の子と行ったと思いますから当然怒って、“違います”と電話を切ってしまう。翌日、学校に行って鈴木さんに会うと機嫌が悪く、何でだろうと思っていたら、父のいたずらだったといったことが何度もありました。父に“お父さん、僕のことで遊ぶのは止めて下さい”と言うと、“真実の愛は障害を乗り越えるものなんだよ”と訳の分からないことを言う。でも何だか面白くて笑った覚えがあります。あれがあの人なりの息子の可愛がり方だったと思います。

 私が慶応大学に進学し、3年生の時にフジテレビに就職が決まりました。書斎に報告に行くと、父は“座れ”と言う。普通の父親なら息子の就職が決まったら、“頑張れよ”とか“辛くても音を上げるなよ”とか言うものでしょう。ところが父はこんな話をしました。“先週、母さんと二人で湘南に食事をしに行った。江ノ島の砂浜を歩いていたら、足が取られて疲れてしまったので、舗装されている国道を歩いた。要するにそういうことだ”と言うのです。私には全く意味が分からず、“どういう意味ですか?”と尋ねると、“お前は本当に物分かりの悪い男だなあ。俺は作家で組織も守ってくれないから一人で歩かなければいけない。歩きにくい砂浜だったけどな。だけど砂浜は振り返って見ると、自分の足跡が見えるじゃないか。お前はこれからサラリーマンになる。色々なところで守ってもらえるし、歩きやすい舗装路を行く。歩きやすいかも知れないが、10年、20年経って振り返ってみた時、自分の足跡は見えないんだぞ”と言われました。せっかく就職が決まったのに、父親にそんなことを言われてすごくショックでした。

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