フジ「遠藤龍之介」新社長が語った父・遠藤周作 就職決定時の忘れられない言葉

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“馬鹿なことを言うな”

 会社に入って1年くらい経った頃、独り暮らしをしていた私は、年始の挨拶に行きました。その時、多分聞かれるだろうなと思っていた質問がありました。“どうだ、舗装路の歩き心地は?”と。私は答えを用意していて、“すごく快適ですが、お父さんの嗅いだことのない排気ガスを吸っております”と返すと、父は何も言わず、ニヤッと笑っていましたね。

 結果的に父の最後の作品となった『深い河』については忘れられないエピソードがあります。普段の父は家族が自分の作品を読むことをすごく嫌がったので、本当は読んでいても、口に出さないのが、遠藤家では暗黙の了解でした。ところが、『深い河』はいつもと違った。当時、私は結婚をして別所帯を持っていたのですが、父から献本がありました。例のないことです。

 何故だろうと、『深い河』を読み始めた時、“これは父の最後の作品になるのではないか”という予感を抱きました。『深い河』は大河的小説で、彼の今までの作品の主人公たちが名前や性別を替えて登場しています。例えば、『わたしが・棄てた・女』の森田ミツ、『おバカさん』のガストン、『沈黙』のキチジローのようなキャラクターが集大成のように入ってきている。“これを書いてしまったら、この人は他に書くものがあるのだろうか?”という思いがしました。その予感は的中し、数年後に亡くなってしまいます。

 父の闘病は3年半に及びました。最初に腎臓が悪くなり、腹膜透析をする体になってしまった。腎臓移植で適合するのは身内が一番だと思い、私の腎臓を一つあげると父に提案すると怒られました。私の子供はまだ小さかったのですが、“馬鹿なことを言うな。これから2人の子供を育てていかなければいけないお前から、臓器をもらってまで生き長らえたいとは思わない”と言われました。

 後半の1年間は意識が戻ったり失われたり、混濁した状態が続きます。ユーモアに富み、気力溢れていた父が日に日に陰っていくのを見るのは辛いものがありました。そうして平成8年9月29日、父は静かに息を引き取りました。73歳でした。

 当然のことですが、作家には年表が残っています。自分のこの年齢の頃、父は何をしていたのだろうか、と時々思うのです。父はいつも私の年齢の遥か先をいっています。芸術院会員になり、芥川賞選考委員になったり、文化勲章を受章したり、もちろん私とはジャンルは違いますが、あの人はすごかったんだな、とつくづく思うわけですよ。

 もう亡くなって17年になります。時代は随分変わりました。父が生きていたら、どんなエッセイを書いただろうか。今のネット社会や、国難、あるいは政治不信について、どんな風に観ただろうかと興味があります。会合などで遠藤周作の息子だと言うと“ファンです”と言って、話を聞かれることがあります。人を引きつける魅力は今も生きているのでしょうね。

週刊新潮 2013年4月11日号初出/2019年5月21日掲載

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