元アイドル「甲斐智枝美さん」の自死 “ポスト山口百恵”の暗転人生【平成の怪事件簿】

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早すぎるヌード

 甲斐のデビューは昭和55年になる。
 
 その前年、伝説のオーディション番組「スター誕生!」の第29代グランドチャンピオンに輝いたのが芸能界入りのきっかけだった。当時、甲斐は高校1年生。所属事務所がホリプロに決まると、福岡県から単身で上京し堀越学園に編入。このときの同級生の一人に、後に伴侶となる長谷部さんがいた。
 
 長谷部さんはジャニ一ズ事務所に所属し、デビューも甲斐と同じ昭和55年6月。当時は「アンク」というバンドでドラムスを担当していた(後に「T-SQUARE」の前身になる「ザ・スクエア」に移籍し、そこを脱退してからはスタジオミュージシャン)。
 
 甲斐がデビューした年は“アイドルの当たり年”と言われ、同期に松田聖子や田原俊彦他、河合奈保子、岩崎良美、柏原芳恵などがいる。その中にあって、ホリプロ所属の甲斐もまた将来を嘱望された“大型新人”の扱いを受けていた。
 
 デビュー曲「スタア」で芸能界入りを果たした甲斐のキャッチフレーズは「KIRARI!瞳が語る」。ポスト山口百恵の呼び声も高く、2枚目のシングルでABC音楽祭80歌謡新人グランプリでシルバー賞を受賞。周囲には、期待に違わぬ活躍ぶりを見せたかのように思えた。
 
 しかし、絶頂は長くは続かなかった。

 シングルレコードはデビューからの2年間で出した8枚のみとなり、3枚目の「マーマレード気分」がオリコンチャートの103位にランキングされたのが最高位になる。販売枚数では同期のアイドルに大きく水をあけられていた。
 
 19歳で”早すぎる”ヌード写真集を発表したときは事務所にファンから抗議の手紙が殺到したというが、裸体の披露は甲斐なりの焦りを表白していたかのようでもある。

「写真集は前からぜひ出したかったの。(中略)ヌードを撮るのが目的じゃなく、18才(撮影当時)の私がそのまま出て、何かプラスになればいいと思っただけよ。10代の記念としてね。(中略)これを機会に単なるアイドルじゃなく、ひとりの女性として私を見て欲しいわ」(本人談「週刊明星」昭和57年7月8日号)

 写真集はレコードの発売にあわせての発表だったが、甲斐にとっては結果的にこれが最後のシングルとなる。

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