小出義雄氏が明かした「有森裕子」秘話 無名のランナーを五輪メダリストに育てるまで

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有森センセー

 小出氏が語る。

「その反応にもびっくりしたね。これは本気だと思い、『僕が練習メニューを作ったら、それをやるか』と聞くと、『やる』と言うんだ。素質のない人間が世界一になるためには、世界一になるための練習をするしかない。常識に囚われた練習法ではダメなんです。例えば、合宿所の練習は、午前6時から8時まで朝練、朝食を食べて補強練習、午後も本格練習。群馬県の榛名湖で合宿した時は、湖の周囲4・8キロを何周も走り込んだ。朝は15キロ走って、その後も50キロを一気に走ったり。今の子じゃできないよ」

 彼女はどんなハードメニューにも歯を食いしばって付いてきた。

「有森は純粋で自分に厳しい。目標も高い。そして、その目標に向かって全てを犠牲にできる子なんです」

 小出氏を仰天させたこんなエピソードもある。

「普通、走っている最中にトイレに行きたくなったら、『監督!』って声をかけて行くだろ。ところが有森は、『時間がもったいないから』って、オシッコしながら走るんだよ。『おいおいおい』ってこっちがびっくりしたよ」

 実は、小出氏は有森を「センセー」と呼ぶ。

「合宿所に入って1週間もすると、彼氏に会いたくて練習に身が入らない子が出てくる。僕はそういう子に、『いいよ、帰れ』って、早く帰らせたことがある。そしたら有森が泣きながら抗議してきた。『監督! 他の子が練習してるのに、なんであの子だけ早く帰すんですか?』って。いやあ、おっかなかったね。これじゃ、有森の方が監督みたいだな、そう思って、“有森センセー”と呼んだんだ」

 真面目過ぎる有森と豪放磊落な小出氏。正反対の性格だからこそ息が合ったのか、有森は小出氏の指導の下、みるみる頭角を現した。91年の大阪国際女子マラソンでは、当時の日本の女子最高タイムを叩き出し、翌年、バルセロナ五輪の代表に選ばれたのである。

「バルセロナに向けては、有森は間違いなく、世界で一番の練習量をこなした」

 と、小出氏は言う。

「バルセロナはとにかく暑い。実際、オリンピックの競技当日は30度あった。そんな中でケニアやエチオピアの選手と戦わなくてはいけない。それを見越して、アメリカ合宿では50度の炎天下を走らせた。だから銀メダルが取れたんです」

 バルセロナ入りした時、小出氏は、有森センセーにこっぴどく叱られたという。

「お前がこれだけ頑張ってるんだから、僕も好きなタバコをやめるぞって、1日40本吸っていたタバコ断ちを宣言した。しかし、やっぱり吸いたくなってね、ショートホープをたくさん持っていったら、センセーに現地で見つかって全部没収されちゃった」

 ところが、このショートホープが、本番で意外な“活躍”をする。

「レース直前、彼女は足を痛め、精神的に不安定になっていた。僕は『走らず、日本に帰れ』と一喝したんだ。それで反骨精神が甦って銀メダルを取ったが、僕から没収したショートホープを1箱、お守り代りにランニングパンツの内側に縫い付けて走ったんです。ゴール後、彼女はそのショートホープを握りしめて、僕を探し回ったという。でも恥ずかしながら、その時、僕は居酒屋で飲んでいた。後から『良くやった。立派だ』と声をかけたんです」

 小出氏は、思い出のショートホープを今も大切に保管しているそうだ。

2017年8月30日号別冊「昭和とバブルの影法師」掲載

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