マツコ・有吉でも話題「マンガは活字よりも劣る」は正しいのか

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マンガは活字よりも劣る?

 1月23日放送の「マツコ&有吉 かりそめ天国」(テレビ朝日系)では、「小説やビジネス書、歴史本をマンガ本で読んでいたら、本好きの友人から『活字で読まないと失礼』と言われてショクを受けた」という視聴者の声を紹介。マツコ・デラックスと有吉弘行が、「マンガ本と活字本」の関係についてそれぞれの見解を述べるという流れになったのである。投稿者の友人の意見の前提には「マンガは活字よりも一段劣るもの」という認識があるのだろう。

 一方で、有吉は「マンガは入り口としていいと思う。それで興味があれば活字で読めばいい」という見解を述べ、マツコは「失礼とかそういうことを言う活字好きはマンガやアニメを見下している気がする」という感想を口にしていた。2人に共通しているのは「どちらが上ということはないのでは」というスタンスだろう。

 マンガは活字よりも劣る存在なのか。これは、古くて新しいテーマだ。

 かつて大学生が「少年マガジン」に夢中になった時、またサラリーマンが「ビッグコミック」を電車で読んでいた時にも、眉をひそめる向きはいた。

「いい年をこいて、マンガなんて」というわけだ。

 さすがに、現在ではそこまで露骨にマンガを軽視する見方は減ったものの、番組で紹介されたような「活字のほうがエラい」という風潮がまだ残っているのも確かだろう。

 しかし、ベストセラー『国家の品格』の著者で数学者の藤原正彦・お茶の水女子大学名誉教授は、近著『国家と教養』の中で、「マンガやアニメも教養を身につけるには欠かせない」と述べている。単に活字への入り口として片付ける存在ではないというのだ。

 活字コンプレックスを持つマンガ好きには朗報の意見だが、その真意を『国家と教養』から見てみよう(以下、引用はすべて同書より)。

大衆文化は重要だ

 藤原氏は従来からある「教養」として、(1)人文的教養、(2)社会教養、(3)科学教養がある、としている。大まかにいえば、(1)は古典や哲学など、(2)は歴史、政治学、地政学、経済など、(3)は科学に加え、統計学、数学など。

 しかし、これに加えて「大衆文化教養」も必要だ、というのが藤原氏の主張である。

「ここに入るのは大衆文芸、芸術、古典芸能、芸道、映画、マンガ、アニメ……などです。これらに親しむことで、美に心動かされたり、人情に触れて胸を熱くしたりすることができます。これらは主に情緒を養うものです。我が国には歌舞伎、能、狂言、人形浄瑠璃、落語などの古典芸能が今も盛んなのに加え、邦楽、茶道、華道、香道、書道、歌道、俳道などの芸道もあり、世界でも類例のない芸能芸道大国なのです。

 このようなものが古くから現在に至るまで盛んに行なわれているのは壮観です。近年は世界中の人々からも驚嘆されるようになり、国家に品格を与えています。未だに世界から称賛されている黒澤や小津の映画、世界を席捲中のアニメなどもあります」

 藤原氏自身、かつてはアニメを子供向けのものだと思っていたが、ケンブリッジ大学で同僚の天才数学者から『千と千尋の神隠し』を薦められて「びっくりした」という。

「先年、『君の名は。』を見て、美しい絵と溢れる情緒に心打たれました。こういう作品を若い人が作ってくれたので、日本もまだ大丈夫。と久しぶりに思ったものです」

 マンガや童謡、歌謡曲等、大衆文化には日本人の情緒や「形(かた)」が凝縮されている、という。藤原氏は、この「情緒と形」の重要性についてこうコメントしている。

「どうして日本の教養層はひ弱だったのか。戦中にはあっさりと軍部にだまされ、戦後はGHQに洗脳され、現在は新自由主義イデオロギーの虜になってしまうのか。それは、西欧崇拝に基づいた『教養』が上滑りのもので、本当に身についていないからです。日本人にとっては、日本人の情緒や形と一緒になった知識でないと、本当には身体にしみこまない。つまり、ホンモノの教養とは言えないのです」

 そもそも活字の本にも良いモノもダメなモノもあるし、マンガでもそれは同じこと。軽々しくマンガをバカにするような人は、ホンモノの教養人と言えないのかもしれない。

デイリー新潮編集部

2019年2月2日掲載

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