大河「いだてん」で注目、当時の最年少職員が明かす東京五輪「国旗」秘話

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怒鳴り込んだ右翼

――「日の丸」のデザインを確定させるのにも、「秘話」があった。

 当時、日の丸のデザインには明確な決まりがなかった。首相官邸や国会で、実際に使っているものを測っても、メーカーが違えばみな違う状況だったのです。

 当時有効だった国旗に関わる法令は1870(明治3)年1月27日の「太政官布告第57号(商船規則)」だけでした。「縦横比7:10、円の直径は縦の5分の3、円の中心は旗面の中心から横の100分の1旗竿側に寄る」というもので、お雇い外国人からの入れ知恵でもあって、これほど複雑になったのではないでしょうか。

 そこで、組織委で独自にデザインを考えました。当時、若手グラフィックデザイナーとして売り出していた永井一正さんらが、「円の直径が縦の3分の2」という日の丸を発表しました。これには「古いデザインのイメージを刷新できる」「勢いがあっていい」などと、デザイン委員会も賛成。メディアでも好評で、毎日新聞が「組織委、国旗を変更」と大見出しで1面に載せたのです。

 すると、「勝手に日の丸を変更するとはけしからん!」と、右翼の大物が、赤坂離宮に怒鳴り込んできました。「川島正次郎さん(自民党副総裁)の紹介で来た」と言い、手には「血判状」とやらを持って、ひたすら罵声を浴びせてくるのです。上司は「すみません」と謝るばかり。若かった私はがっかりしましたが、その“先生”を正面玄関まで見送る際、「ちょっと測らせていただきます」と街宣車の「日の丸」にメジャーをあてたら、円が縦の5分の4という、とても大きな日の丸でした。それを指摘すると、「やかましい!」の一声を発し、砂煙を上げて帰りましたが、結局、日の丸は元の「縦の5分の3」という寸法で作製しました。

 ちなみに、1998年の長野冬季五輪で私は組織委の儀典担当顧問となり、この時は「永井提案」に準じた日の丸を採用しました。34年を経て、かつての願いを全うできたわけです。

――紆余曲折を乗り越え、すべての国の国旗を確定させた吹浦氏。しかし、難関はまだ続く。

 国旗の掲揚にあたっても心配がありました。逆さまに揚げないという当然のことがとても重要だったのです。

 実は、新装なった国立競技場で1958年に開催された第3回アジア大会の時、女子円盤投げの表彰式で中華民国(台湾)の「青天白日満地紅旗」が逆さまに揚がってしまいました。大会幹部は、新橋第一ホテルの宿舎を訪ね、選手団長に土下座をして詫びたそうです。ですから、東京五輪の組織委員会から辞令をいただくときに、「とにかく逆さまには絶対に揚げないように」と厳命されました。

 試行錯誤の末、国旗掲揚塔のロープの上部に金色の雌金具、下部には銀色の雄金具を付け、それに対応して旗の上部に金の雄金具、下部には銀の雌金具を付けることにしました。決して逆には嵌らないように工夫したのです。もちろん目視も怠らず、結果、大会期間中、逆さまに国旗が掲揚されることはありませんでした。

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