ファーウェイ問題から考える通信の「歴史認識」

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アメリカからケーブルを死守した幣原喜重郎

 例えば第1次世界大戦後の日本を見てみよう。しばしば歴史の教科書には第1次世界大戦の日本の“戦利品”として中国の山東半島と南洋群島が挙げられる。いずれもドイツが支配していたところであり、その委任統治権を日本が獲得したことになっている。しかし、単に土地を接収しただけではないというのが、通信における重要な視点である。というのも南洋群島の中のひとつヤップ島(現ミクロネシア連邦)には、大戦前までドイツによって上海と繋がる海底ケーブルが敷かれており、これを日本は大戦中に接収し、上海に接続していた部分を沖縄に付け替え、日本のものとしていたのである。実は同様のことはイギリスも行っており、これを武器弾薬と同様に“戦利品”として、その所有を主張したのが、パリ講和会議後の重要な外交案件であった。

 アメリカは、「アメリカにも権利がある」、「公海上のものなので公有物」などと、さまざまな理由をつけて日本にその所有を認めようとしなかった。イギリスにはそのようなことは口にしなかったのだから。いわば明確な“日本叩き”ではあった。が、当時駐米大使だった幣原喜重郎(後に首相)は、アメリカの国務次官を向こうに回し、徹底的に論破したのである。その一部を拙著『通信の世紀―情報技術と国家戦略の一五〇年史』から抜き出してみよう。

〈一九二〇年一〇月八日、(国際電気通信会議の)予備会議開催前に米国のノーマン・デイヴィス国務次官が、ヤップ島問題に関し、幣原大使に会談を申し入れた。デイヴィスは、「戦前はヤップ―上海間で通信ができたのに、戦後になってできなくなっているは正義の念に反しないか」と訴えた。幣原は、「ヤップ―沖縄線を延長して上海に繋ぐつもりだ」と応じた。デイヴィスは、「打ち明けて言えば米国は外国のコントロール無しにグアムと上海の通信を行いたいのだ」と続けた。もちろんこれに対し幣原は次のように真向から反論した。「ドイツのコントロール下で使っていたのは問題なかったが、日本のコントロール下では不可とはいかがな意味か、それなら米国で直通線を新設すればいいのではないか」。すると形勢不利をみてとったか、デイヴィスは、「米国は(連合国の)勝利に大貢献したので、ドイツの海底ケーブルにも権利を持つ」と話題を変えた。幣原は、「米国の貢献は誰もが認めるが、パリ講和会議では何の要求もせず今になって新たに要求を提出するのか」と質問。するとデイヴィスは、「米国は輿論を無視できない」と返答した。幣原は、「日本は一旦権利を手にしたのだから、なおさら輿論を無視できない」と応じた。会談は平行線をたどった。〉

 幣原と国務次官のやり取りは、さらに日を改めて続けられたが、結局のところ、若干の妥協は許したものの、最終的に幣原が勝利を勝ち取っている。少なくともこの時点における通信は、まさに国同士が威信をかけて真正面からぶつかる重要案件であったのである。もちろん、この失敗に学んだアメリカが、第2次世界大戦後、通信戦略を根本から立て直してきたことは、その後の通信の在り方を知る上で重要なことだが、幣原とデイヴィスのその後のやり取り、さらには米国の新たな通信戦略についての詳細は拙著に譲ろう。

 ともあれ、アメリカ相手にも一歩も譲らなかった日本の通信戦略が、今はどうなっているか、という話である。もちろん、いたずらに主張、対立すればいいと言うものでもなければ、そもそものところ、通信の在り方も今とは別モノである。特にインターネットの時代においては伝送路を確保していれば十分ということではなくなっている。現在では通信設備を巡る問題は、以前より深刻化している面があるといえるだろう。

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