生誕90年「手塚治虫」秘話――“マンガの神様”が号泣した日

エンタメ 文芸・マンガ 2018年11月20日掲載

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 今年11月3日は、「手塚治虫」生誕90年の節目だった。今や日本を代表する文化となった「マンガ」の神様として知られる手塚には、極めて人間臭い素顔があった。没後20年にあたる2009年、週刊新潮ではノンフィクション・ライターの福田ますみ氏による「神様」の実像に迫る以下の記事を掲載した。データは09年2月19日号当時のものである。

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 日本マンガ界の巨星、手塚治虫が胃がんのため死去したのは平成元(1989)年2月9日のことである。手塚を師と仰ぐ藤子不二雄(A)(安孫子素雄)は、その数日前、手塚の夫人から、「もう危ないので」と連絡を受け、入院先の東京・半蔵門病院に駆けつけた。

「その時、先生はほとんど意識がなかったのに、手を挙げて、しきりに空中に円を描くようなしぐさをするんです。先生の真円と言ったら有名でね。ペン一本で正確な円を一瞬にして描く。僕や赤塚(不二夫)はどうしてもゆがんでしまって、先生以外では石ノ森(章太郎)ぐらいしか描けなかった」

 富山県高岡市のマンガ少年だった安孫子は、昭和22(1947)年、ローマ字で『SHINTAKARAJIMA』(新宝島)と題された手塚のマンガを読んだ時の衝撃が忘れられない。

「主人公の少年がスポーツカーを駆って港まで走っていくオープニングシーンにびっくりした。今までそんなマンガを見たことなかったからですよ。まるで僕自身がスポーツカーに乗って疾走するようなスピード感、躍動感を覚えた。絵が動いている! これは、紙の上に描かれた映画だ! とわくわくしながら読み進めたものです。おそらく手塚先生のこの作品を読まなければ、僕はマンガ家になっていなかったでしょう」

 それまでの、絵柄もストーリーも単調なマンガにしか触れていなかった読者にとって、手塚の出現はまさに革命的だった。「鉄腕アトム」のコミックス、「火の鳥」の連載や別冊を手掛けた元朝日ソノラマの松岡博治(メディアファクトリー執行役員)は手塚の功績をこう語る。

「ずばり、映画を見るように読めるマンガを考案したことです。セリフではなく、大胆なコマの展開によって時間の経過や心理の変化を表現する、クローズアップやロングショットを効果的に使い、『ガーン!』など擬態語の書き文字でマンガに音を与えた。また、吹き出しが今の形になったのも、勢いを増す『集中線』も走った後の『流線』も、先生が編み出したものです」

 ストーリーテラーとしても非凡だった。

「ヒューマニズムとともに悲劇的な要素を、ニヒリズムの一方で生命の賛歌を、さらには人間の愚行や文明への懐疑、エロティシズムやグロテスクな素材までも持ち込んだのです」(『アーチストになるな 手塚治虫』の著者で同志杜大学社会学部教授の竹内オサム)

 天才性を物語るエピソードは枚挙にいとまがない。

「先生はたとえば、『鉄腕アトム』の原稿を描きながら『リボンの騎士』のネーム取りの口述をする。ネーム取りというのは、吹き出しとセリフ(ネーム)を画用紙に描いていくことですが、先生はこれを他の仕事と同時進行でやる。『1ぺージ目、4段に分ける』『1段目、均等に3等分する』、それに『1コマ目、右上にゴチックで“しまった”。改行、“ドアが壊れた”。改行、“らしいぞ”』。こんな感じで編集者にしゃべるんですよ。手塚先生以外、誰にもできない芸当です」(講談社「少女クラブ」元編集長・丸山昭)

 手塚がアメリカに滞在した時、国際電話でアシスタントにアトムの絵を描かせた話はもはや伝説的だ。

「方眼紙のX軸とY軸の数字を言って、そこに点を打たせる。『5―8と6―7に点を打ってくれ』という具合に。その点を全部結ぶとアトムの絵が出来上がる。ところがもっと驚いたのは、もとの絵がなかったことです。どうやら先生の頭の中には、アトムのどの部分が紙のどの場所に来れば絵が出来上がるのか正確にインプットされていたようです」(丸山昭)

 マンガを描くスピードも神がかっていた。「ブラック・ジャック」18ページを、アイデアから20時間で仕上げてしまったこともある。

「原稿なんて要らねえよ!」

 とはいえ、さすがの天才、神様も、描いても描いても追いつかない仕事量にいつもギブアップ寸前だった。

 手塚は、巨匠として泰然とかまえていることなどできず、常にトップを走り続けなければ気がすまない性格だった。「マンネリ」と言われることを死ぬほど恐れ、読者に受け入れられるための努力を惜しまなかった。そのため、いつも許容量をはるかに超える仕事を抱え込み、締め切りと編集者に追われた。

 実際、各社編集者同士の手塚争奪戦、また、原稿を落としてはならじと迫る編集者と手塚の攻防戦もすさまじかった。

「僕が先生のアシスタント的なことをやっていた頃、原稿が上がるのを待っていた編集者が電話をしに行った間に、別の社の編集者が先生と僕を裏口から連れ出して神田の旅館に缶詰めにしてしまった。そうしたら、出し抜かれた編集者が追いかけてきて、石ころを部屋の窓にぶつけて『先生、そこにいるの知ってますよ!』って叫んでいた」(安孫子)

 中には、手塚の原稿が待てど暮らせどできず、ブチ切れて神様をブン殴ってしまった編集者もいる。秋田書店「少年チャンピオン」元編集長の故・壁村耐三だ。

「彼は、先生にあの傑作『ブラック・ジャック』を描かせ、赤塚不二夫さんにも『最大の恩人』と言われた名編集者です。ただ、ある時あんまり先生の原稿が遅いんで、『原稿なんて要らねえよ!』と殴って出てきてしまった。いくらなんでも先生を殴ってしまったら万事休す。翌日編集部に辞表を持って行ったら、当時の編集長が、『原稿、来ているぞ』と。先生が別の社の編集者に、『壁村さんが出社する前に届けてくれ』と原稿を託していた。それを聞いた壁村さんは、机の下で辞表を破り捨てたそうです」(丸山昭)

 手塚とそれにつきあう編集者は、毎日が睡魔との闘いでもあった。

「3日間徹夜続きで朦朧としていた先生が、『私が眠りそうになったら声をかけてください』って言うので、僕が椅子を先生の机のそばに持って行って、先生がうとうとすると、『ハイツ!』って肩を叩く。またうとうとすると、『ハイッ!』。先生はそのたんびにぴくんと体を起こして続きを描き始める。まるで餅つきですよ」(少年画報社「少年キング」元編集長・黒川拓二)

 締め切りが迫り切羽詰まった手塚は、夜中に「○○を買ってこい。それがないと描けない」と、子供のように駄々をこねて編集者を困らせることがあった。前出の松岡は、この「我儘」を、手塚と出かけたアメリカでやられた。

「先生はホテルで『火の鳥』を描いていたんですが、『糊がない』と言う。私は、専用のペン軸やら原稿用紙やら全部持って行っていた。和糊もあったので『どうぞ』と手渡すと、先生は怒って、『君は何年担当をやってるんだ。和糊じゃ引っつかない。ペーパーセメントを買って来い』と」

 松岡は仕方なく、初めて来た街をうろつき、コンビニでようやくペーパーセメントを見つけ、ホテルに帰って差し出すと、「いや、和糊ですませた」。

 次々と登場する若い才能への嫉妬も尋常ではなかった。古くは、昭和27年から「冒険王」に「イガグリくん」を連載し、大ヒットを飛ばした福井英一へのねたみが有名である。

 福井は、手塚の映画的手法を参考にした上で、手塚には決して描けない柔道マンガで新境地を開いた。地団太を踏んだ手塚は一つの事件を起こす。当時連載していた雑誌の中で、悪いマンガ表現の例として、「イガグリくん」のキャラクターを使ってしまったのだ。福井の抗議を受け、手塚は平謝りする羽目になった。その福井は昭和29年、狭心症で急死する。

 知らせを聞いた時、手塚はライバルの死に思わず「ホッとした」(『ぼくはマンガ家』)という。

 セリフがひとつもない石ノ森章太郎の「ジュン」に衝撃を受け、白土三平などの劇画の台頭にも脅威を感じていた。

 手塚の長女・手塚るみ子は、「父の日記には、他の漫画家さんのことについても、赤裸々な批評が書いてある」と明かす。

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