ダッドスニーカーを履いて考えた“変えられないもの”(古市憲寿)

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 ダッドスニーカーが流行している。「休日に父親(Dad)が履いていそう」な、全体的に大きなサイズで野暮ったく見えるデザインが特徴だ。かねてから90年代ストリートファッションが再注目されていたところに、ルイ・ヴィトンやバレンシアガが新製品を投入、流行に火がついた。

 と、カタカナを並べて最新ブランド事情を披露したいわけではない。僕も流行に乗ってダッドスニーカーを買ってみたのだが、驚くべきことに気が付いた。背が高く見えるのである。ソールが厚いので5センチくらいは高く見えるというわけだ(しかも足が長く見える)。

 みんながこぞって買う理由がわかった。いかにも厚底という靴を履いていると後ろ指を指されるかも知れないが、ダッドスニーカーなら流行に敏感な人に見える。実際、全体的にサイズが大きいので、あからさまな「厚底感」はない。なのに5センチ高く見える。このブームは長続きすると思った。

 ZOZOの前澤社長が「身長が低くて、自分に合う服がない」というコンプレックスをインタビューで語っていたが、男性にとって低身長というのは特別な意味を持つことがある。

 たとえば小学生の頃、足の速い男子がモテる時期がある(人生で考えると本当に一瞬なので、彼らが狩猟採集時代に生まれなかったことを残念に思う)。身長が低い子どもは、比率の関係で当然に足も短い。結果、走るという行為には大きなハンデを負うことになる。

 それにしても、21世紀にもなって身長に悩む人が多いのは興味深い。僕自身、ダッドスニーカーに喜んだわけだし。

 学校だけに注目してみても、この半世紀で重視されるポイントはすっかり変わった。かつては知識量が多く、計算能力の高い人が「エリート」とされた時代もあった。しかし20年ほど前から、「生きる力」や「人間力」といったように、コミュニケーション能力などが重視されるようになる。実際、スマホで何でも検索できる時代に、知識量はかつてほど役には立たない。

 知識だけの人は「ガリ勉」とバカにされるが、未だに高身長はバカにされるどころか憧れの的だ。現代において「高いところにあるモノを取る」「目立つ」以外にあまりメリットが見つからない。しかも「目立つ」がいいこととは限らない。俳優の城田優くんは、いくら身を潜めようと思っても、190センチの長身のせいですぐに見つかってしまう。

 少し話は変わるが、先日の「新潮45」騒動の時、元編集長の中瀬ゆかりさんは、顔を隠していたのに記者から声を掛けられたのだという。おそらく身体のシルエットでバレたのだろう。

「一般人」が「有名人」に声を掛ける時も、何かの確証がないと呼び止めにくいらしい。その意味で、最もバレやすい有名人は乙武洋匡(おとたけひろただ)さんだ。サングラスをして、深く帽子をかぶっていても完全に無意味。中瀬さんと同様にシルエットで身バレしてしまう。数年前の騒動を振り返っても、本当に勇気がある人なんだと思う。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目される。著書に『だから日本はズレている』『保育園義務教育化』など。

週刊新潮 2018年10月25日号掲載

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