「稲川淳二」のもうひとつの顔 元祖“リアクション芸人”だった頃を知っていますか

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「夏といえばTUBEか稲川淳二」と言われていたのはいつのことだっただろうか……。夏しか売れないと言われたTUBEは夏でも売れなくなったが、稲川淳二(70)は今も健在だ。夏どころか11月まで続く「怪談ナイト」ツアーは四半世紀を超え、26年目を迎えて大盛況。だが、若い人達は、彼を怪談の語り部としか認識していないのでは。実を言うとこの人は――。

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 それは、いまを去ること25年前、1993年8月13日の金曜日……稲川淳二はクラブチッタ川崎にいた。第1回目の「怪談ナイト」である。共演者には、後に病死するミュージシャンで心霊研究家の池田貴族もいた。この会を皮切りに稲川は怪談への道を突き進むのだ。

 だが、それ以前の稲川の姿を30代以下の若い方はご存じないだろう。当時、語り部は稲川の、世間にあまり知られていないもうひとつの顔だった。実は彼こそ――のちにダチョウ倶楽部や出川哲朗へと受け継がれる“リアクション芸”のパイオニアなのである。

「元々工業デザイナーだった稲川さんは、1976年に『オールナイトニッポン(2部)』(ニッポン放送)のパーソナリティとして芸能活動をスタート。80年代に入ってビートたけしさんや明石家さんまさん達の『オレたちひょうきん族』のザ・ベストテンのパロディである“ひょうきんベストテン”に歌手役として出演していました。その度、散々な扱いをされて“悲惨だな、悲惨だな、悲惨だなーッ!”と叫んではボロボロになり、最後はカメラに向かってアップで“いかがでしょーか。喜んで頂けましたか?”でオトすという芸風で知られるタレントでした」(当時を知るテレビ関係者)

 40代以上の方ならば、“あーそうだった!そーだった!”と思われることだろう。でも、どんな酷い目に遭わされていたんだっけ?

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