「大日本帝国時代が懐かしい」 パラオの人が今でも親日の理由

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アメリカに期待したものの

 戦後、大日本帝国の統治から解放され、自由になったはずの南洋の島々の人たち。それにもかかわらず、彼らの中には「日本時代」を懐かしむ声が少なくない。
 それはなぜか。前回同様『日本を愛した植民地』(荒井利子・著)に収録された島民たちの肉声などをもとに見てみよう(以下、同書をもとに記述。引用はすべて同書より)。

 当然のことなら、アメリカが統治者となったことについて、当初、パラオ人たちの期待は大きかったようだ。

「他国に占領されても、ドイツ時代から日本時代になって、生活レベルも上がり、良い時代になった。だから、日本時代からまた新しい時代になるということは、日本時代よりももっと良い時代になるに違いない」

 こう考えていたのだ。
 ところが、当のアメリカ側に問題があった。戦前の日本統治時代、外国人は特別の許可がない限り、ミクロネシアには入れなかった。そのため、アメリカは日本統治時代、島が経済的に栄えていたこと、インフラも整備され、島民もきちんとした生活を送っていたことを知らなかった。
 アメリカ人が最初に目にした現地の人たちは、戦争の影響でボロボロの衣服をまとい、お腹を空かせ、悪臭が漂っていた。アメリカ人はそれがパラオ人の真の姿だと思ってしまう。要するに「原始的な生活をしている」と勘違いしてしまったのだ。
 そして、勝手に「彼らの原始的な生活を混乱させてはならない」と考えたため、最低限のものしか与えてはいけないと判断してしまった。

 実際には日本統治時代、パラオ人は日本人と同じような服を着て、学校に通い、工場などで働き、賃金を得ていた。ところがアメリカ人はそうしたことを知らないうえに、一所懸命に伝えてもなかなか信じなかった。
 もちろんこうした誤解は次第に解けていく。そしてアメリカ政府はミクロネシアに素晴らしいものを提供しようと考える。「自由」である。
 ドイツはもちろん、日本もさまざまな指図を島民にしただろう。しかしアメリカはそんなことはしない。日本統治時代には、飲酒も厳しく管理されていたが、そんなこともなくなる。「自由」に飲めるのだ。酒の作り方も教えよう――これがアメリカのスタンスだった。
 それは一見素晴らしいことだった。しかし、当然ながら酒によるトラブルは日本時代とは比べられないほどに増えた。
 それだけではない。麻薬やマリファナに手を出す者も出てきた。
 次第に島民は「自由」への疑問を抱くようになる。地元の老人、トミオさんの話。

「戦争が終わって、アメリカが来て、だいぶ違った生活になりました。アメリカ人は日本人と違って、『おまえたち、あれやれ、これやれ』っていっさい言わないで、『おまえたち、自分でやれー、好きなようにやれー』って。だからそこで私たちは初めて自由って何なのかアメリカ人から学びました。その自由とは、何でもしたい放題、好き勝手にやって良いことだと受け止められた」
 
 この自由を当初歓迎した島民たちも次第にそのマイナス面にも気づくようになる。

「アメリカは自由すぎる。学校で乱暴しても喧嘩しても、先生は殴らない。日本の学校では先生に殴られたけど、良いことと悪いことを教えてくれた。今の子どもたちに怒ると、『今と昔は違う』と言われる。殴られたからこそ、私たちは学ぶこともできた」(スソニンさん)。

 日本でもそういう教育は戦後見られなくなってくるが、彼らはそんなことは知らない。

動物園みたい

 こうした教育やモラルの問題もさることながら、深刻なのは経済だった。日本統治時代、日本は島に貨幣経済をもたらし、工場や建築現場などでの労働を提供する他、さまざまな職業のレベルアップをはかった。だからこそ島は経済発展を遂げた。
 しかし、アメリカはそうした方向での発展を島に促そうとはしなかった。魚の網を繕う仕事、古いやり方の建築をするように指導したのだ。アメリカの経済発展政策は「ゆっくりと逆戻りして悪い方向に向かう」ようにしか思えないものだったのだ。

 統治の初期こそある程度の投資をしたものの、しばらくすると島の人々には予算をさかなくなった。結果としてと自給自足の農耕生活に戻るようになった島民も出てきた。「まだ戦争中の方が良い生活をしていた」とまで言われるようなレベルにまで生活は落ち込んだ。
 現地の女性はこう厳しく非難している。

「アメリカの時代になってガラリと変わりました。アメリカはやり方がひどい。ほったらかしです。遊びたければ遊べ。酒飲みたければ飲め。学校行きたければ行け。アメリカの学校へ行った人もいますよ。行っても続きません。学校をまともに卒業した人なんか指で数えるほどしかいません。動物園みたいに、餌だけ与えておけばいいって」

日本時代に差別は感じなかった

 さすがにあまりにもひどい生活レベルを放っておけず、1960年代にアメリカは政策を転換し、ケネディ大統領の時代に、アメリカとの「永久的な政治的関係を持つこと」を最終目的とすることとなる。しかし、これは要するに永久的な属国となるということだ。
 この方針のもとで、ミクロネシア関連の予算は一気に増えた。しかし、それでも島民の生活が向上したとはいえなかった。補助金漬けで自活力がつかない、というのは別に珍しいことではないだろう。
 だからこそ、現地の老人は日本時代を懐かしむのだ。戦争で親をなくしたり、家が壊されたりして、日本を恨む人もいる。しかし、それでも……とこう語る。

「アメリカ人は、とっても親しみやすい言葉をかけてくれる。だけど、長期間友情関係を続けられるような友情ではない。長いこと友情関係を続けた人はほどんといない。日本人の言うことの方がより明確だった。自分たちのようになりなさいって。上のランクの日本人はずっと上だったけど、下のランクの日本人は我々と変わらない。冗談を言えば、日本人も冗談で返してきた。アメリカ人とは冗談を言い合うようなことはない。それは、アメリカ人はみなランクが上だと感じているからだ」

「アメリカ時代になってから、アメリカ人に対して差別意識を感じるようになった。日本時代はそれを感じさせない時代だった」

『日本を愛した植民地』の著者である荒井氏は、こうした言葉を多くの老人たちから島で聞いたという。
 言うまでもなく、大日本帝国の統治、支配に対してはこのような好意的な反応ばかりがあるわけではない。そこにはそれ相応の理由もある。荒井氏は、簡単な解決策はないが、交流を深めたうえで、パラオの人たちのように「日本人はいい人だ」と言ってくれる人を増やすべきだ、と述べている。
 その意味でも、日本人はパラオの人たちが寄せてくれている好意についてもっと知っておくべきだろう。日本人のどこに彼らは好感を持ってくれたのか。その精神を私たちは今でも持っているのか――。

デイリー新潮編集部

2018年8月19日掲載

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