監督たちのバイブル『甲子園の心を求めて』をめぐる物語 脈々と繋がる“幻の名著”の思い

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“普及”か“甲子園”か

 帰国後、堤さんは縁あって誕生間もない福岡のスポーツマネジメント会社で働く。番組や広告制作に関わり、会社を大きく伸ばした。ゴルフの諸見里しのぶ選手と出会い、マネジメントも担当した。飛ぶ鳥を落とす勢いのとき、おかやま山陽高から監督就任の依頼を受けた。会社からは強く慰留されたが、ひとつの記憶が堤さんの背中を押した。アジアの野球指導に携わるきっかけをくれた前田祐吉さん(元慶応大監督)の言葉だった。

 タイで指導していたある日の昼休み、堤さんが相次ぐ高校野球の不祥事を非難すると、声を荒らげたことのない“仏の前田”が、机を叩いて怒鳴った。「君が日本中の中学生が入りたくなるようなチームを作ってから批判しなさい」。ついにそれに挑戦する日が来たと感じ、監督を引き受けた。平成18年の春だった。人の縁は不思議だ。監督就任にあたっては右腕が必要だ。知人を通じ、若く優秀なコーチを募ると、求めに応じ斎藤貴志さん(現・副部長)が岡山に来てくれた。都立城東が初めて甲子園に出たときの中堅手だ。情熱の絆、『甲子園の心を求めて』の思いが脈々と繋がっている。

 1年目の入部者は3名。現実は甘くなかった。「甲子園に絶対行きたい」わけではない。「野球を世界に普及する」それが堤さんの生涯のテーマだ。甲子園と野球の普及、これをどう共存させるか、数年間は葛藤が続いた。地区予選敗退ばかり。平成24年、大差でコールド負けした後、当時の理事長が「監督を交代した方がいい」と言った。部長が「あと1年だけ」と説得してくれた。このままでは終われない。後がなくなり、吹っ切れた。

「甲子園に出ることで普及の勢いをつけたらいい」

 高校野球を指導する原点を見直し、野球途上国に中古道具の発送を始めたのが平成23年。振り返れば、それからはずっと県大会出場が続いている。そして昨夏、おかやま山陽は初めて甲子園出場を果たした。「いらなくなったグラブとかあったら、おかやま山陽のアルプススタンドに持ってきてください」と呼びかけた。

開幕5日前の豪雨

 今春のセンバツにも出場、だが夏を前に思いがけない出来事が襲った。豪雨、水害。監督の自宅やグランドは大丈夫か。連絡すると、

「うちやグランドは大丈夫ですが、4番の選手の家や何人かの選手の家がやられました。今日で水も引くと思うので、明日、全員で土砂撤去に行く予定です」

 それが岡山大会開幕の5日前。練習は続けながら、みんなで片付けを手伝いに行く日々。家が2階まで水に浸かった主将は家族に励まされ、出場を決意した。普段は威勢のいい堤監督の声が、少し勢いをなくしていた。この状況で、何のために甲子園を目指すのか? 答えが見つからないかもしれないと感じた。2試合を勝ち進んだ7月20日にはこんなニュースが報じられた。

〈おかやま山陽野球部が19日、西日本豪雨の被害を受けた岡山県浅口市で土砂撤去作業を行った。岡山県の社会福祉協議会から学校へ依頼を受けて、この日はベンチ入りメンバー全員で参加した。(中略)主将の井元将也内野手(3年)ら倉敷市真備町に自宅のある選手は、自らも豪雨の被害を受けながら、復興作業を続けている。井元は「自分の家も浸水しているけど、自分の家より被害のあるところもある」と話していた〉(日刊スポーツ)

 おかやま山陽は3回戦で玉島商に5対1で敗れた。

 堤さんはジンバブエ野球協会の要請を受け、2020東京五輪出場を目指すジンバブエ代表監督に就任した。高野連も兼任を認めた。まずはジンバブエ代表候補4選手をおかやま山陽に呼び、一緒に練習する。8月初めに4人の来日が決まった。『甲子園の心を求めて』、高校生とジンバブエ代表の、新しい交流が始まろうとしている。

小林信也(こばやし・のぶや)
スポーツライター。1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶応大学法学部卒。雑誌「ポパイ」や「ナンバー」編集部を経て独立。中学硬式野球チーム「東京武蔵野シニア」の監督も務めた。『高校野球が危ない!』『「野球」の真髄』なぜこのゲームに魅せられるのか』など著書多数。

週刊新潮 2018年8月9日号掲載

特別読物「高校野球『100回』記念 監督たちのバイブル『甲子園の心を求めて』をめぐる物語――小林信也(スポーツライター)」より

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