監督たちのバイブル『甲子園の心を求めて』をめぐる物語 脈々と繋がる“幻の名著”の思い

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監督たちのバイブル『甲子園の心を求めて』をめぐる物語――小林信也(2/2)

 昭和50(1975)年に発行された『甲子園の心を求めて』(報知新聞社刊)は、今も高校野球の指導者たちの“バイブル”として知られる一冊である。著者は当時都立東大和高校監督だった、佐藤道輔さん(故人)。名著に魅せられた男たちにスポーツライターの小林信也氏が迫った。

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 東東京から初めて都立校が甲子園に出場したのは、平成11(1999)年の都立城東高。監督の有馬信夫さん(56)も、佐藤道輔監督の名著を読んでその背中を追ったひとりだ。

 日体大の野球部で一度もベンチに入れず卒業した後、東京都の教員採用試験に受かった。高校野球の監督になれると思ったら違った。赴任先は定時制の鮫洲工。野球部はあるが軟式野球。部員は何人かいたが、練習に来るのはひとりだけだった。有馬監督は夜9時から10時までの限られた1時間の練習に、その部員と真剣に取り組んだ。たったふたりのキャッチボール、トスバッティング、ノック。その生徒はいま、都立高で野球部の監督を務めている。

 当時、生徒は荒れていて学習意欲も低かった。難しい授業をやればついて来られない。一計を案じ、中学レベルの授業を続けていたら、日本語のたどたどしいひとりの生徒がすごい剣幕で詰め寄ってきた。

「私は日本で勉強して、大学にも行きたい。こんな授業じゃ通う意味がない」

 彼はベトナムから日本にたどり着いたボートピープルだった。必死さが違う。母国に家族が5人いる。月に6万〜8万円のアルバイト料から2万円を送っている。有馬監督はその生徒に教員としての姿勢を教えられた。

「ライバルは監督」

 定時制での生活は7年に及んだ。まもなく30歳を迎える歳になって、全日制の都立城東に異動した。だが、ここでもすぐに監督はさせてもらえなかった。

 体育主任の先輩に「うちに野球部の顧問はいらない」と言われ、バレー部の顧問を任された。野球部にはすでに監督がいた。有馬監督はしかし、くさらなかった。部員たちに「野球で言う甲子園って、バレーの場合は何だ?」と訊いた。生徒が「インターハイじゃないっすか?」と答えた。「よし、じゃあ、それを目指そう」。有馬監督がひとりで体育館のモップを全部きれいに洗う姿を体育主任はじめ教員たちが見ていた。バレー部は健闘を重ねた。愚痴をこぼさず、楽しげにバレーに取り組む有馬監督に体育主任が言った。2年目の夏だった。「明日から野球をやれ。全部話をつけておいた」。前任監督に交代の了承を取り付け、グランドは各部と共用だが野球部に主要なスペースが与えられた。顧問たちの総意だった。それから数年後、都立城東は甲子園出場を果たす。

「部員は100人に増えましたが、最後の3年間、ひとりもやめませんでした。それが何よりの成果です」

 有馬監督が言う。その練習は厳しい。叱咤も半端ではない。夏休みになれば連日朝7時から夜7時まで練習。順番に勉強もする。さぞ選手は耐えることに必死ではないかと案じたが、そうではなかった。

「都立城東のころ私の日課は、終了後、隠れて練習している選手がいないか、学校中を見回ることでした」

 帰れと言うのに、体育館の陰で素振りをしている選手がいた。それほど意識が高かった。甲子園出場が決まったとき、テレビの取材で「ライバルは誰か」と聞かれた主将が、「あえて言うなら有馬監督ですかね」と答えた。有馬に負けたくない、監督は自分という壁を越えるための仮想敵だったのかもしれない。

 有馬監督はその後、保谷高、総合工科高で幾度か強豪を破り、代表校を苦しめた。今春から都立足立新田で新しい挑戦を始めている。

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