「飲み会で接待するのは女のマナー」「性犯罪は隙を見せる女が悪い」 女性たちが感じる息苦しさの正体

国内 社会

  • ブックマーク

Advertisement

 あるTwitterが巷で話題となっている。とある企業の男性3人と女性1人が、社員寮で飲み会をしたとき、男性たちがただ飲み食いする中、女性1人が食事の準備をしたり洗い物をしたりして、帰り際も簡単にテーブルを片付け、ゴミ出しまでしたにもかかわらず、シンクに洗い残しの食器などがあったことについて、翌日1人の男性が「なんで片付けて帰らなかったの? 全部やって帰るのがマナー」と注意したという内容だ。注意された女性は一応謝ったというが、誘ったのは男性たちだという。

 このツイートに対し、「全方向であり得ない。宅飲みで男性の中に女性1人だけとわかってて誘うのもあり得ないし、料理・サーブ・片付けを女性1人に押し付けるのもあり得ない」「未だにこんな感じなのかと驚愕し憤慨しました。『会果つれば女が茶碗洗うものと男も女も決めて疑わず』が未だに生きてるのかまさか」「私のところもそうですよ。女は接待係。料理してお酒ついで、あれこれして」と女性から非難が殺到した。

 いくら男女平等社会を謳っても、「女はこうあるべき」という、固定概念は根強く残っているのが日本社会だ。「女は早く結婚して子どもを産むべき」「家事は女がするべき」「子育ては女がするべき」「女はお酌をするべき」……そうした概念から外れた女性は槍玉に挙げられることがしばしばある。

 それだけではない。さらに驚くべきは性犯罪に遭った女性に対する反応である。5月末、ジャーナリストの詩織さんが顔と名前を公表し、準強姦事件の不起訴を受けて不服申し立てをした際にも、〈詩織さんはシャツの胸元開け過ぎで説得力ない〉〈同情を逆手に取った売名行為です、女から誘って男がはめられた〉〈ハニートラップだ〉などと、被害者の詩織さんを“セカンドレイプ”する声まであがった。

 詩織さんのケースだけでなく、性犯罪被害に遭った女性に対し「隙を見せる女が悪い」などという言葉を投げかける人は、どんなときだって一定数いる。NHK「あさイチ」が実施した「“性行為の同意があった”と思われても仕方がないと思うもの」調査では、泥酔しているが35%、2人きりで飲酒が27%、2人きりで車に乗るが25%、露出の多い服装が23%、2人きりで食事が11%という驚きの結果が出ている。

男ってのはどうしようもない動物

「女性のみなさんも勘弁すてやってね。男っでものはどうしようもねえ動物だがらね」

 これは東日本大震災後の避難所で、女性たちが虐げられながらも逞しく生き抜く姿を描いた小説「女たちの避難所」(垣谷美雨・著)で、避難所に緊急避妊用のピルが届き、必要な人は取りに来てくれと避難所の男性リーダーがアナウンスした場面で、1人の老人が言った台詞である。

 婦女暴行されたときに72時間以内にこのピルを飲めば妊娠しないという説明を聞き、老人は「そら便利な薬があるもんだね」「家も流され仕事もなくしで男だづもイライラしでっがらね。そういうごどがあっでも仕方ねえだろうね」と発言。そして先の「男っでものはどうしようもねえ動物だがらね」という言葉を発するのである。

 小説の中の出来事であって、実際にそんなこと言う人はいないだろうと思う方もいるかもしれない。しかし、女性たちの息苦しい現状を顕著にあぶり出したのが、東日本大震災だったと指摘するのは、ジャーナリストの竹信三恵子さんである。竹信さんは、同小説の解説で、日本社会における女性たちの生きづらさについて言及している(以下「 」内、「女たちの避難所」解説より抜粋、引用)。

これ以上、何をどう頑張ればいいのか

 竹信さんは、東日本大震災後、女性NGOのメンバーや研究者、ジャーナリストたちとともに「東日本大震災女性支援ネットワーク」を結成し、実際に自分の足で被災地に足を運び、女性たちの不自由さを目の当たりにしたという。

「『お母さん、子どもたちもいるんだからしっかり頑張って、と励まされても、私はもう、頑張れるだけ頑張っている。これ以上、何をどう頑張ればいいというのか』と涙ぐむシングルマザーもいた。
 
 様々なものを失って、被災者は心も身体もケアを必要としているのだが、『人をケアするべき性』として扱われてきた女性被災者たちは、頑張れと言われるばかりで、自らをケアしてくれる存在がいない。そんな中で女性被災者たちが、静かに疲れ果てていく姿が見えてきた」

 同小説には、避難所のリーダーになった男性に、女子高生2人が、支援物資の段ボールを使って家族ごとに仕切りを作ってほしいと頼むシーンがある。男性の目を気にして毛布の下で着替えるなど、プライバシーのない生活に辟易していた多くの女性がそれを歓迎した。しかしリーダーの男性は「絆と親睦」を深めるため、その仕切りは利用しないと断言する。主人公の1人である椿原福子(55)は、反対意見を言いたいと考えるものの、女が意見をすればここに居づらくなるだけだと、押し黙る。他の女たちも同様だ。結果、彼女たちはプライバシーのない生活をしばらく続けることとなる。

 にわかには信じられない描写だが、竹信さんによれば、まさに東日本大震災後、ある避難所で同じような事実を目にしたというのだ。

「私たち支援者は、授乳や着替えの場所もない避難所の状態に、東京に戻って、政府に避難所で使う間仕切りを支給してくれるように働きかけた。たくさんの間仕切りが避難所に送り出された。だが、それが使われない避難所もあった。若い被災女性から『被災者同士は家族のようなもの、間仕切りで分けるなんて水臭い、という男性リーダーがいて、間仕切りを使えなかった』と聞いた」

 これだけではない。小説でも触れられているが、義援金を誰が受け取るかという点においても、女性たちは多大なる苦労をしていたという。

「義援金が被災者たちに配られる段になった。そこでは支給対象が世帯主とされ、DVを恐れて別居している妻には届かないという問題も起きてきた」

依存してくる男性たち

 竹信さんはこうした出来事を踏まえ、以下のように指摘する。

「震災は、男女平等を明記した憲法を持ち、『男女共同参画』へ向けて政府も旗を振ってきたはずの私たちの社会の実相を、はからずも浮かび上がらせたのだった。

 この小説は、そうした被災女性たちの姿を、年代の異なる3人(28歳、40歳、55歳)の女性の被災体験を通じて照らし出す。被災当日、避難所暮らし、そして仮設住宅へと移っていく彼女たちの体験のひとつひとつは、私たちがあの日以降、現場で見てきたものそのままだ。

 そんな3人の被災体験が浮き彫りにするのは、日本という社会での『女性の居場所のなさ』だ。女性の踏ん張りに、のしかかるように依存してくる『夫』『舅(しゅうと)』という名の男性たち。これにやりきれなさを抱きながら、正攻法に拒否すれば、女性たちは、共同体の中での住むべき位置を失う。にもかかわらず『みんな大変なんだから』と、女性同士が牽制(けんせい)し合って不満を抱え込み、『我慢』することでかろうじてなりたっていく共同体の息苦しさが、そこにはある」

 ***

 平成の世になっても、女性の息苦しさはまだまだ拭いきれていない。日本人が東日本大震災から学んだことは多い。たくさんの絆、勇気、愛、そして美しい出来事も生まれただろう。しかし一方で、震災があぶり出した負の面、「女性の居場所がない」という事実からも目を背けず、私たちが今後日本という社会を生きる上での課題とすべきであると、強く感じるのだった。

デイリー新潮編集部

2017年8月4日掲載