【世界遺産登録決定】「潜伏キリシタン」はなぜかくれ続けなければいけなかったのか?

社会2018年7月5日掲載

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 6月30日、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」がユネスコの世界文化遺産に登録された。ひそかに信仰を守り続けたキリシタンによる文化伝統が登録の対象で、島原・天草一揆の舞台となった原城跡や五島列島の島の集落などが含まれている。

 世界文化遺産への道筋がはっきり見えたことはまことに喜ばしいかぎりだが、この「潜伏キリシタン」ということばに、あれ? っと思った向きは多いのではないだろうか。

「かくれキリシタン」なら聞いたことあるけれど、「潜伏キリシタン」はあまり聞いたことない。

 どちらも同じ意味だと思われていることが多いようだが、じつは、この二つの名称、明確な違いがある。

 その説明に入る前にここでざっくりとわが国のキリスト教の歴史を再確認すると――

 イエズス会のフランシスコ・ザビエルによって日本にキリスト教が伝わったのが16世紀半ばのこと。そののち江戸初期(1614年)に禁教とされ、明治初め(1873年)に信教の自由が保障されるまで、じつに260年間、キリスト教の信仰は禁じられてきた。

「潜伏キリシタン」とは、この長きにわたる禁教時代に、ひそかにキリスト教の信仰を続けていた人々のこと。一方、「かくれキリシタン」は、禁教が解けた明治以降も、潜伏キリシタンである先祖代々の信仰を継続していた人々のことをいう。今回、世界文化遺産登録に向けて、禁教時代の歴史的背景を伝えるために、潜伏キリシタンという名称が用いられることになった。

 つまり、もう何を信仰しても自由ですよ、という世になっても、あえてカトリックに復帰しなかった人たちがいて、「かくれキリシタン」になったというわけだ。

 なぜ彼らは「かくれ」続けなければいけなかったのか。

 カメラマンの後藤真樹さんは、潜伏キリシタンの末裔でかくれキリシタンを続けている人たちや、現在はカトリック信徒や仏教徒になっている人たちへの取材を重ねてきた。かの地にはいまも、かくれキシリタンの子孫が住んでいるのだ。その貴重な証言を集め、この4月『かくれキリシタン 長崎・五島・平戸・天草をめぐる旅』(新潮社とんぼの本)として上梓した。

 後藤さんによると、ずっと待ち望んできた信教の自由を得たというのに、カトリックに復帰することを選ばなかったのには、様々な事情があるという。

「ある集落では、禁教下での取り締まりのなかで起きた騒動をきっかけに、カトリックに復帰する者と旧来の信仰を続けざるを得ない者との2派に分裂してしまいました。また、寺請制度にしばられてきた潜伏キリシタンたちの中には、寺の檀家をやめることで村八分にされてまわりから孤立することをおそれ、復帰せずにかくれキリシタンとして生きることを選んだ人たちもいました。カトリックに復帰しようとすると、井戸や墓地を使わせないなど、いわゆるいじめのような締め付けが行なわれたところもあったそうです」

 たとえお上が許したといっても、それと村の掟は別。大っぴらにキリシタンと名乗るのにはやはり支障があったようなのだ。

 もっとも、すべての集落に対立構造があったわけではない。

 平戸島の根獅子地区のように、これまでどおり先祖代々のお祈りをしていれば、カトリックの教会に行く必要もないと、自然にかくれキリシタンを町ぐるみで続けてきたという地域もあるという。

「潜伏時代に長い年月をかけて確立してきた組織は、そのまま村の組織でもありました。生活と信仰は分けがたいものになっていたのでしょう」

 カトリックに復帰した人々は自分たちの祈りの場を持ちたいと熱望し、一つ、二つと各地で教会堂を造り上げていった。かたや、かくれキリシタンとなった人たちは、それまでどおり、組織の中で厳しい役割を果たしながら、先祖代々伝えられてきたオラショ(祈りの言葉)を唱え、特有の暦に従って一年の行事や儀式を行ってきた。

「かくれキリシタンの人たちは、自らを古(旧)キリシタンと呼んでいました。祈りをする座敷を締め切って誰も入れることはしないなど、潜伏時代と同じように、ひそかに、かたくなに信仰を守ってきたのです」

 潜伏キリシタンの末裔たちは、このように道を分かつことになった。しかし、信仰の形態は異なっても、祈りの気持ちは何も変わらないはずだ。

 後藤さんの撮影するキリシタンの里の聖地や史跡の写真は静謐で美しい。

 それはそれぞれの地域で様々な事情を抱えながら、独自の信仰を育んできた信者たちの思いが結晶となっているからかもしれない。