G-SHOCKのヒット牽引「樫尾和雄さん」の決断力

ビジネス 企業・業界

  • ブックマーク

Advertisement

 誰しもが一度は手にしたことのある「カシオ計算機」の製品は、“これまでにない製品で世界に貢献したい”という思いから生まれた。週刊新潮のコラム「墓碑銘」から、カシオ計算機会長・樫尾和雄さんの足跡を辿る。

 ***

 カシオ計算機が世間を驚かせたのは、1972年。個人向け電卓「カシオミニ」を1万2800円と手が届く価格で発売したのだ。

「電卓を個人でも気軽に使えるよう、高性能を保ちながらいかに小さく安くできるかに挑んだのです。これまでにない製品を創造して新たな市場を生み出そうとする社風は今も変わりません。面白くて実用的と喜ばれ、人々の役に立てればと考えていました」(ジャーナリストの小宮和行さん)

 発想を製品化できたのは、「樫尾4兄弟」が才能豊かで仲良く協力したからだ。

 温厚で堅実な長男の忠雄さん(93年に他界)は財務や総務を、次男の俊雄さん(2012年に他界)は発明家といえる天才で技術や製品開発を担った。三男の和雄さんは積極的で負けん気が強く、決断力もあって営業や宣伝に、四男の幸雄さんは忍耐強く技術にも明るく、生産管理にあたった。

「4兄弟は鉄の結束を保ち、大企業に成長後も主導権争いが起きていません」(「財界」主幹の村田博文さん)

 三男の和雄さんは、29年、現在の東京・荒川区生まれ。父親の茂さんは高知県で農業をしていたが、関東大震災後の復興を見込んで上京した。長男の忠雄さんが46年に樫尾製作所を興し、52年には4兄弟が町工場に揃い、下請けをしながら計算機の開発に挑戦した。

 57年、世界初の小型純電気式計算機を発売。机ほど大きく48万5千円もしたが画期的だった。カシオ計算機の設立も同年である。

 やがて電卓の開発製造に大手電機メーカーも参入して、激しい競争が始まる。電卓は企業向けに月1万台売れれば上々の時代に、和雄さんは個人向けの試作品を見て、月に10万台は売れると断言する。社内の不安をよそにカシオミニは大ヒットした。和雄さんは全国の文房具店を販路として活用するなどぬかりがなかった。

「大手電機メーカーとの競争に勝った。和雄さんの営業力は、製品を売るだけでなく、企画の段階から使う人が何を求めているかを徹底して考え、製品に反映させる能力です」(小宮さん)

 カシオは時計事業にも参入する。「落としても壊れない丈夫な時計」という1行だけの企画書から始まった、耐衝撃腕時計「G-SHOCK(ジーショック)」の開発にすぐ賛成したのも和雄さんだ。

 83年に発売されるとアメリカで消防士や警官が絶賛、映画でハリウッドスターも使うなどファッションとしても人気に。日本にはアメリカ発の流行として90年代に逆上陸、ブームとなる。

「時計は精密機械だから大切に扱うという常識を逆手に取った着想、切り口で、頑丈な腕時計という市場を作り出した。時計のように一般的なものでも目のつけどころがまだあることを実証しました」(村田さん)

 G-SHOCKは、発売から35年で出荷1億個を突破した。革新的で長く支持されるというカシオが目指す製品の良い見本だろう。

 95年には液晶画面付きのデジタルカメラを世界で初めて発売、撮影後すぐに画像を確認でき重宝がられた。

「リスクにも敏感で、小型液晶の生産や携帯電話事業からの撤退に見切りの良さがありました」(村田さん)

 88年に忠雄さんから社長を引き継ぐ。俊雄さんは、今後も技術開発に専念したいと社長を固辞したのだ。

 社長就任以降、一時は売上高が6千億円以上の企業にまで成長させた。27年務めた社長を15年に長男の和宏さんに交代、自らは会長に就いた。樫尾4兄弟の長男は皆、カシオに入社したが、去った人もいる。

 6月18日、誤嚥性肺炎のため、89歳で逝去。

 亡くなる直前まで出社し、会長として経営を支えた。

「事業をもっと伸ばしたい、新しい柱を立てたいと会長は申しておりました。既成概念や過去の成功体験にとらわれず、前進する姿勢の大切さを強調していました」(カシオ計算機広報部)

週刊新潮 2018年7月5日号掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。