なぜイギリス代表ではなくイングランド代表なのか? にわかファンのためのW杯世界史談議

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 連日の熱戦で楽しませてくれるW杯、寝不足気味で見過ごしがちだが、ふと立ち止まってみると素朴な疑問も湧いてくる。たとえば「イングランド代表」。なぜ「イギリス代表」ではないのか。イギリスはイングランドのほかは予選で敗退しているものの、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドと、あわせて4つの代表チームをW杯に送り込んでいる。

 これはW杯を主宰する国際サッカー連盟(FIFA)が誕生する前から英国4地域がそれぞれ独立してサッカー協会を持っていたことに因む。イギリスはひとつの国というよりは、複数の王国の連合と考えた方が正しいのだ。立命館アジア大平洋大学学長の出口治明さんの著書『全世界史』(新潮文庫刊)を紐解くと……

〈スコットランド王がイングランド王を兼務することによって、両国は同君連合の関係になりました。この2国が一体化するのは100年少し後の1707年で、そのときからグレートブリテン王国と呼ばれます。さらにそれから100年近くが過ぎた1801年にアイルランドを加えて、連合王国となります〉

 ちなみにイングランド代表のユニフォームに入っている3頭のライオンとバラによるロゴマークはテューダー朝とプランタジネット朝の紋章を組み合わせたものだ。同じロゴマークでいえばフランス代表はニワトリでお馴染みだが、これはニワトリを意味するラテン語と、フランスの古名であるガリアが同じ言葉であることによる。独特な臭いで有名なフランスのタバコ「ゴロワーズ」も同じ言葉が語源だ。稀代の指導者ユリウス・カエサルはこのガリアを征服したことで政治的基盤を固めた。

 そのフランス代表のエース選手が今大会の新星となったキリアン・エムバペ(カメルーン)をはじめとして、ティエリ・アンリ(グアドループ系)やジネディーヌ・ジダン(アルジェリア系)などアフリカ系が多いのも不思議だ。これはフランスがかつてアフリカなどさまざまな地域を植民地化し、奴隷貿易に励んだ名残り。フランスの植民地政策を変えたのは第2次大戦後にフランスを率いたシャルル・ド・ゴール首相。出口さんは彼の決断をこう評する。

〈ド・ゴールは、インドシナ半島で、ホー・チ・ミン相手にフランスが泥沼状態に陥ってしまったことをよく理解していました。そこで1959年9月に、アルジェリアの民族自決を認めます。(中略)国家と民族の行く末を冷静に見据えたド・ゴールの政治家としての決断は、賞賛に値すると思います。1962年、アルジェリアは独立を果たしました〉

 こうして第2次世界大戦後、多くの植民地は独立したが、働き口を求めて旧宗主国に移民した旧植民地出身者の子どもたちが、フランス代表を担っているのだ。

 このように、世界史の反映としてW杯をみるもの、また一興だろう。

デイリー新潮編集部

2018年7月4日掲載

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