「異常な鉄道愛」がディズニーランドを作った 筋金入りの「鉄オタ」だったウォルト・ディズニー

ビジネス 2018年7月4日掲載

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鉄道こそが原点だった

 夏休みになるとますます多くの人が訪れることになる東京ディズニーリゾート。

 混雑時には人気アトラクションが数時間待ちという事態も珍しくはない。

 一方で、比較的待ち時間が短いのは「ウエスタンリバー鉄道」「蒸気船マークトウェイン号」「トムソーヤ島いかだ」といった交通機関関連のアトラクションである。比較的一度に乗れる人数が多いうえに、子供に人気のアニメキャラクターとは関係がないというのもその理由だろう。

 でも、どうしてアニメキャラクターと関係ないアトラクションがあるのか。その疑問に答えられる人はどれだけいるのだろう。

 実は、ディズニーランドのアトラクションにはこれらに限らず、アニメやディズニーの映像作品とは無関係のものが少なくない。

 それは生みの親であるウォルト・ディズニーがこのテーマパークを作った動機と密接な関係がある。

 ディズニー関連の著作が多い有馬哲夫早稲田大学教授は、著書『ディズニーランドの秘密』の中でその理由について、こう解き明かしている(以下、引用はすべて同書より)。

「オリジナル・ディズニーランド創造の物語の最初にくるものは鉄道です。そして、鉄道が文明の牽引車だったころの古きよきアメリカを再現し、その時代の精神を自分も振り返りたい、ゲストにも振り返ってもらいたい、というのがウォルトの動機でした(略)。

 ウォルトがこのテーマパークを計画したとき、彼の頭の中にあったのは、彼および彼と同時代のアメリカ人が、開拓時代を中心とするアメリカの象徴的シーンを機関車に乗ってめぐっていき、それによって過去を『生き直し』、明日に向かっていく気力を取り戻す機会にしたいということでした。

 だからこそディズニーランドには、パークを一周する鉄道があるのです」

人生は鉄道と共に

 なぜウォルトがそこまで鉄道に思い入れがあったのか。それは彼の生い立ちと深く関係している。彼の祖先はアイルランドからやってきた移民である。

 祖父ケペルは子供の頃に父親と共にニューヨークにやってきた。その後一家はカナダに向かいオンタリオ州に移り住む。

 そこで生まれたのが長男のエライアス。ウォルトの父である。寒冷な土地で、ケプルは11人も子どもを作ったため一家の生活は苦しかった。

 そのため1878年、ケプルはエライアスともう1人の息子を連れてカリフォルニアに向かう。ゴールドラッシュの時代、一獲千金を狙ったのである。

 もっとも、実はこの時にはすでに金鉱探しのブームは終わっていた。そのため親子は道中、カンザス州で土地を買って農業を始める。

 しかしそれに満足しなかったエライアスは鉄道会社に就職し、西に向かう鉄道を敷設する仕事などにかかわることになる。

 エライアスは、その後米国内を転々とする。その間に結婚もして、生まれたのがウォルト・ディズニーである。そのウォルトも人生の節目節目で国内を移動し、職場や生活を変えていく。そうした人生の重要な一コマ、一コマには常に鉄道があった。

 少年の頃のウォルトは、よく線路に耳をつけて汽車が近づいてくる音を聞いたという。

「汽車がやってくるとちぎれんばかりに手を振ったそうです。伯父のマークがのっていると手を振り返してくれるからです」

 手を振る子供に大人が振りかえす。これはまさに今のディズニーランドでも見られる光景のようだ。

「当時の子供たちにとって汽車を見ることは楽しみでした。鉄道はいつもなにか新しい、よいものを持ってきてくれるからです。そして、まだ見ぬ世界、未知の世界とつながっているからです」

我が家に鉄道が欲しい

 このように鉄道に何らかの思い入れを持つのは当時のアメリカ人としては珍しくないことだったが、ウォルトの場合は並外れた思いがあったようだ。

 彼がテーマパークのアイディアを得たのは、ディズニーの幹部アニメーターの自宅に招かれた時だった。この幹部もまた相当な鉄道好き。1938年には本物の中古機関車を購入し、自ら手入れをしたうえで自宅の庭で走らせ、友人を招いた際には、乗せてあげたりもしていたほどのマニアである。

 この「マイ機関車」サービスにウォルトは大興奮。

「とくに汽笛が気に入り、何度も紐を引いては鳴らし、大はしゃぎしました。『蒸気船ウィリー』や『ダンボ』の中の汽笛のギャグの場面を覚えているかたは、ウォルトがどのくらい汽笛に思い入れがあったかわかると思います」

 この経験からウォルトは、自身も中古機関車を探したが、そう簡単に手に入るものではなかった。自社の幹部は持っているのに、社長である自分は持っていない。そのことを考えるとウォルトは心穏やかではなかったようだ。そして、こう思うようになった。

「本物の開拓時代の機関車を、いかにも開拓時代を思わせるパノラマ的風景のなかで走らせることができる本格的なパークを作りたい」

はしゃぐ40代

 その後、太平洋戦争や自社の業績不振などがあって、いったんはこの熱はおさまるが、戦後しばらくすると、またしても鉄道熱は再燃。1948年には先の幹部と共にシカゴの鉄道博覧会を見学に行く。

 旅の途中、汽車の機関士がウォルトが乗っていることを知って、サービスで機関室に招き入れてあげた。

「汽笛を鳴らしてもいいといわれたので、ウォルトは小さな子供のように、何度も紐を引っ張りました。短く鳴らしたり、長く音が尾を引くように鳴らしたり、いろいろな鳴らし方をしました」

 同行の幹部職員によると、ウォルトの喜びようは尋常ではなかったようだ。

「もう恍惚として、頬がだらしなく緩みっぱなしで、視線は空中をさまよっていたそうです。まさしく、はしゃぎにはしゃいで、はしゃぎ疲れたときの小さな子供が見せる表情ですが、この時彼はすでに40代です」

 その後、彼は実際に巨大な土地を取得し、さらに鉄道の建設許可も申請する。この段階では「ミッキーマウス・パーク」と名付けられていたこのテーマパークがのちのディズニーランドだ。

 ウォルト・ディズニーの異常な「鉄道愛」からはじまったプランが、いまでは世界中の人を魅了するテーマパークへと育っていくのである。

デイリー新潮編集部