帝国ホテルの「靴磨き職人」が見た戦後 “ドロンを磨いた布が欲しい”とファンからねだられ…

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「帝国ホテルの靴磨き」が見た華麗なる戦後史(上)

 多くの著名人を唸らせてきたプロフェッショナルが、東京・帝国ホテルの地下にいる。靴磨きコーナーに陣取るキンちゃんは、戦後から靴を磨き続けてきた知る人ぞ知る存在だ。以下は、当時71歳の職人が語った“華麗なる戦後史”である。(※週刊新潮2005年1月13日号より)

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 終戦から数年後、私は福岡で試写室の映写技師をしていました。当時、ハリウッドの大スターだったフレッド・アステア。その華麗なタップダンスに魅せられてしまったのです。ピカピカに磨かれた靴が何とも軽妙なリズムを奏でる。そのアステアの靴に目を奪われてしまいました。フィルムを回しながら、私は、「これだ! 僕が生きる道は靴磨きだ」と思ったのです。

――昭和8年、北九州市の若松に生まれたキンちゃんは、国民学校6年で終戦を迎えている。

 私には放浪癖があったようで、映写技師を辞めた後は色々な仕事を転々としながら、福岡から佐世保、長崎と漫遊しましてね。また福岡に戻ってきて、最後にたどり着いたのが、米軍の板付基地、現在の福岡空港でした。そこで米軍の将校付きルームボーイとなったのです。

 ルームボーイは将校の部屋の掃除、洗濯、こまごまとした雑用など何もかもやらなければなりません。僕がシューシャイン(靴磨き)を覚えたのは、ルームボーイをしていた時です。私の磨き方は、スピッシャインと言いまして、靴墨に唾を混ぜて磨く。そうするとエナメルのような光沢が出るんですよ。

 靴には革の筋目があって、私たちプロはその目を探しながら、その目に沿って靴墨を摺(す)り込んでいきます。私は、このスピッシャインと英会話を、アメリカの軍人から学びました。いまこうやって外国のお客さまと、ブロークンですが、英語でお話ができるのも、その時の経験があればこそなんです。ルームボーイは3年ほどやりました。

 親しかったジェームスという将校が退役することになりましてね。羽田空港経由でアメリカに帰国するジェームスに付いて上京したのです。昭和29年頃でしたが、当時の羽田はまだその一部が米軍に接収されたままでした。

客には白洲次郎、石原裕次郎ら

――ルームボーイを辞めたキンちゃんは、日比谷通り沿いの三信ビルの中にある「ウォーカー」という靴屋の顧客を相手に靴磨きの仕事を始める。キンちゃんの靴磨きの仕上がりがたいへん良いと評判になる。

 当時は舶来の靴がデパートなどで買える時代ではなかったのです。しかし、なぜか「ウォーカー」は舶来の靴を扱っていました。お客さまがお買い上げになった靴を磨いて差し上げるのが、私の仕事です。

 東北電力の会長を務めた白洲次郎さんは、それはもうお洒落な方でした。足許というのはその人の人格を表します。本当にお洒落な方は、どんな流行が来ようとも、自分のスタイルを変えません。英国に留学した白洲さんは、ブリティッシュが好み。ジョン・ロブやエドワード・グリーン、チャーチなどいずれも素晴らしい靴ばかりでした。

 アメリカにフローシャイムという靴があります。後に、石津謙介さんのVANからトラッドシューズが売り出されましたが、あの頃の洒落者たちは、1ドル360円の時代、1足100ドルはするフローシャイムのロイヤル・インペリアルを好んで履いたものですね。

 喜劇俳優の益田喜頓さんもお見えになりました。この方もお洒落で、トラッド系のウイングチップがお好きでした。喜頓さんは話題の豊富な方で、磨いている間中、映画、ジャズ、ファッションを軽妙なジョークを交えながら話し、全く飽きさせない。私も大の映画好きですから、クラーク・ゲーブルがどうの、ケーリー・グラントがこうの、と2人で盛り上がりました。「ウォーカー」の中2階には、6畳ほどのVIP用シューシャインのスペースがありました。石原裕次郎さんも「ウォーカー」の靴がお好きでよく来られましたが、人目に晒されるようなところで靴を磨いたら、それこそ黒山の人だかりになってしまいます。田宮二郎さんも常連さんでした。

ダンディな紳士が名刺を

 三信ビルの地下の「ピータース」というレストランの中にバーカウンターがありました。皆さん、そこに集まってきて、ひとしきり映画や音楽、ファッションなどお洒落談義に花を咲かせた後、私のところで靴を磨き、夜の街へと繰り出していったのです。

 そんな方たちを相手に靴磨きをして暮していたのですが、ある日、とてもダンディな紳士から名刺を渡されたのです。昭和34、35年の頃でした。「ウォーカー」お馴染みのお客さまではありましたが、どこのどなたかは存じません。その方は当時、帝国ホテルの取締役だった犬丸一郎さん。後の社長です。いやあ、驚きましたね。「日本一の帝国ホテルには日本一の靴磨きが必要だ」と、まさに三顧の礼でもって迎えんばかりに口説かれたのです。

 私が迷っていたら、犬丸さんから、とにかく帝国ホテルに一度おいで、と言われ、ハウスキーピングの責任者の方にお目にかかりました。重厚な煉瓦造りのライト館だった頃です。1000室以上ある部屋の3割から、毎晩、靴が出るとの説明でした。それで私は帝国ホテルで靴磨きをすることにしたのです。

 深夜に客室から出る靴をピックアップし、磨いて翌日の12時までに戻す。現在のように、お客さまの目に触れる仕事ではなく、裏方の作業でした。

 ただ、300足も出るのでは、私1人だけでは磨けません。仲間を10人連れて行きました。靴磨きをしているのが業者だということを、お客さまに覚えていただくには3年はかかると思ったので、仲間には「3年だけ黙って僕に付いてきてくれ」と頼みました。

 それまでは、各階の係がサービスとして靴磨きをやっていたようです。お客さまがドアの外に磨いて欲しい靴を出しておく。それを磨いてお返しする。靴の中にチップが入っていたのかもしれません。

 しかし、いざ仕事が始まってみますと、期待したほど靴が出ない。1足か2足なんて夜もあったし、ひどい時にはゼロなんてこともありました。1足磨いていくらのペイバック方式ですから、靴が部屋から出なければ収入にならない。靴磨きの料金は確か1足50円だったかな。でも食えないから、仲間が1人減り、2人減りで、結局、残ったのは4人でした。

「布を分けてちょうだい」

――日本経済が高度成長の波に乗り、来日する外国人も増える。多くの著名人が、東京滞在中は帝国ホテルに泊まった。

 アラン・ドロンが来日した時は凄まじかったですね。今のヨン様ブームどころの騒ぎではありません。宿となった帝国ホテルには全国からファンが詰め掛けました。ハウスキーパーが彼の靴を持ってきて、磨いて戻したら、どこでどう聞きつけたものか、30分もしないうちに20歳ぐらいの若い女の子が5人も押しかけてきて、

「おじさん、アラン・ドロンの靴磨いたでしょ」

 と尋ねてきたのです。

「磨いたよ」

 と答えると、

「その布を分けてちょうだい。記念にするから」

 この布は木綿の浴衣地を2枚重ねたものですが、これを仕込むには10年かかるんです。

「私らの財産だから分けるわけにはいかない」

 と断ると、女の子たちは泣かんばかりに、

「お願いだから。家宝にするから」

 と言って2時間も3時間も動かない。私も映画ファンだし、彼女たちの気持ちも分らんではないから、ついには折れて、布を分けてあげました。北海道の子から、盆暮れに「あの時の感激を忘れません」と礼状が届いていましたね。

 アラン・ドロンはフランス人なのに、靴はイギリスのチャーチだったと記憶しています。

 (下)へつづく

週刊新潮 2005年1月13日号掲載

特集「『帝国ホテルの靴磨き』が見た華麗なる『戦後史』」

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