文楽太夫の人間国宝「竹本住太夫さん」稽古と気迫(墓碑銘)

エンタメ週刊新潮 2018年5月17日号掲載

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 時に逆風に見舞われた伝統を、守り、後世に遺した。週刊新潮のコラム「墓碑銘」から、竹本住太夫さんである。

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 人形浄瑠璃文楽は、太夫、三味線、人形遣いの三業が一体となった伝統芸能だ。大阪で生まれ、300年以上の歴史を重ねてきた。

 竹本住太夫(すみたゆう)さん(本名・岸本欣一)は語り手を務める太夫。人間国宝に認定され、2014年には文楽界で初めて文化勲章を受けた。

 半世紀以上の縁があった、国立劇場の元理事で演出家の山田庄一さんは振り返る。

「太夫はひとりでいくつもの役を語り分け、情景の描写も語ります。単なる声色ではありません。登場人物が持つ事情や雰囲気も表現しながら、その人物になりきる一歩手前でとめないと、すぐに次の人物に転換できません。今、どの人物が何を話しているのかをはっきり伝えられないと聴き手は戸惑います。難しい芸です。自分は声が悪く不器用で良かったと言うのです。だからとにかく稽古をしたんだと。稽古に一生をかけても足りないと言っていました」

 1924年、大阪生まれ。父親は文楽三味線の鶴澤友吉。生後すぐ、後の人間国宝、六世竹本住太夫の養子に。小学生にして太夫を志す。文楽には家元制度も世襲もない。文楽の修業は厳しく、儲からないと親は反対した。大阪専門学校(現・近畿大学)で法学を学ぶ。

 46年に中国から復員後、二世豊竹古靱太夫(とよたけこうつぼだゆう)(後の豊竹山城少掾(やましろのしょうじょう)に弟子入り、豊竹古住太夫(こすみだゆう)の名で初舞台。

 48年に文楽が2派に分裂すると三和(みつわ)会で全国を巡業。

「太夫が少なかったこともあり実力以上の役も経験させてもらい鍛えられたと苦労を厭わなかった。この頃、上手ぶってやってはいかんときつく戒められたことを生涯、肝に銘じていました。基本も身についていないのに勝手に工夫などするな、基本に忠実に素直にやれということです」(山田さん)

 2派は63年に合流、文楽協会が発足する。66年にできた国立劇場でも公演できるようになり84年には大阪に国立文楽劇場が開かれた。

 稽古の鬼は報われた。81年に太夫の最高位である切場語(きりばがた)りに昇格。85年、七世竹本住太夫を襲名、そして89年には人間国宝に。

「慢心どころか、人間国宝になってからも竹本越路太夫(こしじだゆう)さんのもとに稽古に出かけていました」(山田さん)

 文楽一家に育った妻の光子さんは、厳しい批評をしてくれた。2女を授かった。

 2012年、当時の橋下徹大阪市長が文楽協会に対する補助金の削減を打ち出すと、前面に立って文楽の大切さを訴える。時に87歳。ほどなく脳梗塞で倒れた。

「交渉事にあたるような人ではないのに、文楽の危機だと必死でした」(山田さん)

 言葉がうまく発せないことに怒りを爆発させるほどリハビリに猛烈に取り組み、翌年1月には舞台に復帰。

 NHKの元アナウンサーで文楽にも造詣の深い山川静夫さんは言う。

「滑舌のいい芸で60年代から好きでした。私も脳梗塞になり回復したので、何か役に立てればと、新人アナウンサーが練習で使う“アエイウエオアオ”といった言葉を手紙と一緒に送りました。喜んでいただいてありがたかった。謙虚な人です」

 腹式呼吸で出した力強い息に声を乗せて語る体力の要る芸である。復帰したが、腹に力が入らず、独特の抑揚に乗せて語ることがうまくいかないと気づく。

「周囲は大丈夫と思っていましたが、悪い見本になってはいけないと引退の決心は堅かった」(山田さん)

 14年5月、89歳で惜しまれつつ舞台を去る。その後も講演や取材に応じていた。

「好きで文楽を始めたのなら、勝手に満足せずにがむしゃらになって欲しいと若手を心配したり、時には嘆いていた。怒鳴るほど指導は厳しかった」(山田さん)

 今年に入って体調を崩しがちになり、4月28日、肺炎のため93歳で逝去。

「最後は人間性でんな、とよくお話しになっていました。文楽でも体から自然と情がにじみ出てくるような芸でした」(山川さん)