馬場の好敵手であり盟友 人間発電所「ブルーノ・サンマルチノさん」の心意気(墓碑銘)

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 その訃報はおなじみの愛称のほか、「プロレス界の伝説」「真のスーパースター」といった呼び名と共に伝えられた。ブルーノ・サンマルチノさんの生涯を、週刊新潮のコラム「墓碑銘」から振り返る。

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 1972年10月22日、全日本プロレスの旗揚げで、ジャイアント馬場とブルーノ・サンマルチノは熱闘を繰り広げた。

 身長209センチの馬場は、サンマルチノより20センチ以上も高く、体重も上回る“東洋の巨人”。だが、サンマルチノは怪力の持ち主なのだ。重量挙げなら200キロ以上を持ち上げる。胸囲は140センチ余、腕回りは50センチ以上。両腕で締め上げるベアハッグは得意技のひとつだ。“人間発電所”の愛称は、あふれ出してくる猛烈なパワーを表すという。

 馬場が全日本の創設にあたり親しいサンマルチノに相談すると、旗揚げにアメリカから駆けつけ、レスラー招聘にも協力してくれた。

 一方、アントニオ猪木が創設した新日本プロレスで営業本部長などを歴任した新間寿さんは振り返る。

「人気と実力があるサンマルチノを何としても呼びたかった。でも来てくれなかった。馬場さんとの信義というのかな、お互いに強く信頼していた。アメリカでの契約先から猪木の方に行け、と言われても聞き入れず、アメリカで自分の立場が悪くなっても気にしない。こういうレスラーは珍しい」

 35年、イタリア中部の生まれ。馬場より3歳年上だ。家族でアメリカに渡った。59年にプロレスラーとなる。

 63年にバディ・ロジャースをわずか48秒で倒し、第2代WWWF(現・WWE)世界ヘビー級王者に輝く。この王座を合計11年以上も保った。アメリカ武者修行中の馬場とは61年に初対戦。馬場も力をつけ64年にはサンマルチノの地位に挑んだ。

 初来日は67年。ふたりはじっくり話す仲になる。馬場は英語が苦手でレフェリーのジョー樋口が通訳を務めたという。馬場が身をかがめて日本車に乗り込む姿を見て、アメリカから船便でキャデラックを贈ったとは太っ腹だ。馬場はその後買い替えはしても、同じ色のキャデラックに乗り続けた。

 力道山の次男で全日本プロレスの旗揚げにも参加した百田光雄さんは言う。

「自分の体を甘やかさずコンディションを完璧に整えて試合に臨むのです。1時間以上も前から入念なウォーミングアップをして、さらに走ってそのまま試合になだれこんでくる感じですね。スタミナが凄い。寡黙で温厚、黙々と闘っていました」

 東京五輪の柔道で日本の全階級制覇を阻んだオランダのアントン・ヘーシンクがプロレスに転じた際にも、馬場の心を汲んで一役買う。対戦でヘーシンクに技を繰り出させながらも、プロレスとはこういうものだと試合運びや攻守を体で教えた。

 人気絶頂のアメリカでも、日本人レスラーと対戦した。キラー・カンさんは言う。

「尊敬するレスラーで雲の上の人。存在感がもの凄い。心臓がバクバクしました。腕なんて丸太のような迫力です。力が強いので捕まったらおしまいだと、動き回りました。これは話していいのかな、レフェリーから小声で髪だけはひっぱってはいけないと言われました」

 70年代半ば頃からカツラをつけていたが、馬場は容赦なく頭に手刀を浴びせた。

 81年に45歳で一度引退したのに全日本の大きな興行のためならと来日。馬場と組み、タイガー・ジェット・シン、上田馬之助と闘った。息子のデビッド・サンマルチノもプロレスラーだ。

 99年に馬場が61歳で急逝すると、ザ・デストロイヤー、ジン・キニスキーらと追悼に訪れた。リング上で「体だけでなく心もジャイアントだったね」などと自然な温かい言葉で盟友を偲んだ。

 2001年にイタリアの故郷に銅像と体育館が建ち、13年にはWWEの殿堂入りの栄誉に浴す。ノンフィクション作家の柳澤健さんの取材に応じたりと元気だった。

 4月18日、82歳で逝去。

 昨年のNHK連続テレビ小説「ひよっこ」の一場面に馬場対サンマルチノ戦のポスターが登場。ふたりは時代を象徴する存在だった。

週刊新潮 2018年5月3・10日号掲載

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