【新潮45】「私はなぜ家族を殺めたのか」 日立妻子6人殺害事件 夫である犯人「悔恨の手記」

国内新潮45 2018年4月号掲載

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 昨年10月6日早朝、茨城県日立市に住む小松博文(33)が警察署に出頭した。妻と5人の子供を包丁で刺し、自宅アパートに放火したという。5人は即死、小学6年生の長女のみ病院に搬送されたが、死亡。小松は緊急逮捕され、「妻から別れ話を切り出された」と供述した。

 小松を救いのない狂気に駆り立てたものは、何だったのか。前編後編に分け綴られる悔恨の手記。今回はその前編の一部をお届けする。(以下、「 」内、「新潮45」2018年4月号より抜粋、引用)

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「私が死刑になっても、遺族に対しては何の償いにもならないとわかっています。謝罪の手紙を書こうと便箋を手にしたこともありましたが、私から手紙が行けば余計に傷付けてしまうと思い、止めました。後悔していると、私が言ってもいいのか? 反省している、そんな言葉を使う権利が私にあるのか? 何をもって償ったと言えるのか、誰か教えて下さい。これが本音です。

 裁判で争う気持ちはありません。残された時間、知識を吸収し、考え、ほんの少しでもよいから真人間になりたい。この33年の人生で、私は何を思い、何を考え生きて来たのか、見つめたい。

 もし許されるなら一度だけ、一瞬でもいいから、墓前で手を合わせたいと願うばかりです」

無免許運転で逮捕

 小松が妻・恵さんと知り合ったのは、平成21年の5月。小松が24歳の時だった。病院のロビーで偶然知り合い連絡先を交換した2人は、それから2カ月ほど経った頃、恵さんの娘・夢妃(むうあ)ちゃんと3人で阿見町にあるアウトレットモールに出かけたという。

「この日を境に、私たちは一緒に暮らすようになりました。月3万円の家賃は折半にし、私が風呂釜やエアコン、足りない家財道具を買い揃えた。といっても、妻は実家によく泊まっていたし、私も頻繁に千葉と往復していたので、本格的に同棲を始めたのは付き合って3カ月後、妻が妊娠してからです。妻は生理不順でピルを飲んでいたのですが、私が知らない間に服薬を止めていて、『計画的だったの?』と後に笑い合った記憶があります。ともに親は、結婚には大反対でした」

 平成22年8月23日、長男・幸虎(たから)くんが誕生する。しかし、それからひと月後、小松は無免許運転で逮捕され、在宅起訴。黒羽刑務所に収監された。恵さんは毎日のように手紙を送り続け、その数は200通近くになったという。そして逮捕から4カ月後、1カ月半の仮釈放で出所した小松は、水道工事の仕事に就いた。しかし運転免許がないので日給は7千円。月に14万円の稼ぎにしかならなかった。

「妻と相談して、結局その会社は辞めました。母や千葉の友人に借金し、何とか暮らしていたのがこの時期です。まだ入籍していなかったので母子手当と児童手当も受給していたのですが、それも生活費に回していました。パチンコ屋に通い、勝ったら5万、10万と恵に渡すという日々が半年ほど続きましたが、建設現場の仕事を紹介され、給料は1日1万1000円になりました」

 2カ月が経った頃、妻の妊娠がわかる。平成24年9月6日に、次男・龍煌(りゅあ)くんが生まれた。

「私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。

 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、『これなら何とかなる』、心強く思ったものです」

 平成26年5月7日、双子が誕生。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいたので「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けた。

福島第一原子力発電所で働く

「私が福島の『イチエフ』(福島第一原子力発電所の通称)に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある『Jヴィレッジ』に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした」

 その後、運転免許を取り直した小松は、借金を少し返し、中古車を購入。ひたちなか市の運送会社で働くようになった。半年経った頃、会社の所長から「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われた。二つ返事でお願いをしたが、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付いた。

「厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。

 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです」

 その年の春、恵さんは、昼の仕事に就き、さらに夜にはスナックのバイトも始める。小松も6月から自動車ガラス店で働くようになった。恵さんが夜いない日は、小松が子供たちの面倒を見ていたが、恵さんの帰りは、0時、1時がそのうち3時、4時とどんどん遅くなっていったという。そして迎えた9月30日。長女と長男の通う小学校の運動会が終わった後、小松は、恵さんが子どもたちを下駄箱まで迎えに行っている間に、車の助手席においてあった妻のスマホを隠れて開き、ラインのトーク内容を見てしまう。

「〈今日、昼休みそっち行くね〉
〈何か食べたいものある?〉
〈早く一緒に寝たい〉
〈好きだよー〉
〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉

 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました」(後略)

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 全文は「新潮45」4月号に掲載。恵さんとの出会いや、両親の死、スマホを見てしまった後の恵さんとのやりとりなど、最悪の事態を引き起こすまでの経緯や心境を、詳しく語る。運動会から事件当日までを語った手記後編は、同誌5月号に掲載される。

デイリー新潮編集部