パラリンピックに「感動」する前に考えてほしいこと 障害者芸人ホーキング青山の見解

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パラリンピックは盛り上がるのか

 競技コンディションの問題などは多く見られるものの、それでも開幕した平昌五輪が多くの興奮や感動を呼んでいるのは間違いない。続いて開催される平昌パラリンピックでも同様のシーンが多く生まれることを望まない人はいないだろう。

 ただ一方で、テレビ、新聞での扱いはかなり小さくなるのも現実だ。

 五輪とパラリンピックは同じくらい素晴らしいのだ、という理想とこの現実とのギャップをどう考えればいいのか。

 障害者芸人として20年以上のキャリアを誇るホーキング青山さんは、新著『考える障害者』の中でパラリンピックについてこんな自説を述べている(以下、引用は同書より)。

「現状では、多くの人がパラリンピックを見たり、関心を持ったりする理由の一つに『身体にハンデを抱える人の頑張る姿を通じて感動したい』という気持ちがあると思う。

 でも、この認識が提供側や選手たちにもあるうちは、だめなのではないか。結局、身体にハンデを抱えていなければ、競技のパフォーマンスや頑張る姿だけでは感動させられないということになってしまう。それじゃあどうしたって、パフォーマンスや頑張る姿だけで感動させているオリンピックより一段下ということになってしまう」

 そうは言っても、身体に何らかのハンデがある以上、区別するのは仕方がないのでは、と思うだろうか。しかし、実はそうとも言い切れない事態も起きている。

「(リオパラリンピックでは)目の不自由な人たちの陸上男子1500メートル走で、1位から4位までのパラリンピック選手のタイムが、同競技のオリンピック選手の1位を上回ったというのだ。

 つまり、4人の視覚障害者がオリンピックに出ていたら、メダルを独占していたかもしれないというのだ。これは驚きの快挙である。

 そして、理想を言えば、これこそが目指すべき状況なのだと思う。

 パラリンピックはもともと、傷病兵のリハビリで始めたもので、オリンピックとはまったく別物だった。しかし、今後こういう結果が増えてくれば、障害者と健常者が同じ土俵に立ったらどうなるのか? 障害者は健常者にどこまで対抗しうるのか? という関心も少なからず湧いてくるのではと期待してしまう。同じ土俵で戦える実力がつけば、たとえ健常者との対決がなかったとしても、パラリンピックが一段下という風には見られなくなるだろう。

 実際に健常者と同じ土俵で勝負したいと思っている障害者の選手たちは多くいるはずだ」

R-1グランプリ

 もちろん、これは一種の理想論だろう。現実的にはハードルが高いことはホーキングさんも承知している。それでも、自身の経験から障害者という「特別枠」におさまってしまうことへの懸念について、改めてこう語ってくれた。

「車イスの障害者芸人としてデビューした後に、アングラのお笑いライブに出ていた時期がありました。そういう場では、僕が、ちょっと危険な言葉、放送禁止用語とかを連発すれば、それだけでウケるわけです。ここでは言えないような言葉ですね。

 その場合、しゃべりの技術や、ネタの出来は関係ない。ただテレビに出ないタイプの芸人が、テレビでは言えないようなことを言うだけで喜んでもらえるような場があるんです。

 でも、これじゃあ芸人としてまずいだろう、と思ったから他の普通のライブに出るようにしてきました。特殊な場でのみ通用しても仕方がないからです。

 一般の芸人さんにまじって出演するのですから、当初はスベってばかりでしたが、そういう場に出続けることで、普通に笑いが取れるようにもなりました。

 芸人と名乗る以上は、『障害者枠』に甘えてはいられないと思っています。スティーヴィー・ワンダーは障害があるからじゃなくて、歌が素晴らしいから感動を呼んでいるわけで、そういう在り方が理想なんじゃないでしょうか」

 こんな考えからホーキングさんはかつて、R-1グランプリにもエントリーしていたことがあった。残念ながら決勝まで残れたことはないが、今年のR-1グランプリでは、目が不自由な漫談家、濱田祐太郎が決勝に残ったという。

 もちろん、特別扱いではなく他の芸人と同じ扱い。少しずつではあるが、こうしたケースが増えていくことが、望ましいのではないだろうか。

デイリー新潮編集部

2018年2月21日掲載

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