キタサンブラック引退!「北島三郎」が語る引き際の美学

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“のど自慢大会荒らし”

――1936年(昭和11年)10月4日、本名・大野穣は、北海道上磯郡知内(しりうち)村(現・知内町)の漁業と農業を営む家に、7人きょうだいの長男として生まれた。周囲では歌の上手い少年として知られていたこともあり、高校2年の時、「のど自慢素人演芸会」(現「NHKのど自慢」)に出場した。当時、番組の司会を務めていたのは、後に参議院議員になった宮田輝アナウンサーだった。

「その時の鐘の数は、2つ。私のなかでは、鐘は3つ鳴るんじゃないかって期待していたんですが、アガってしまいました。宮田さんが『いい声をしていたけど、惜しかったですねえ』なんて優しく声をかけてくれましてね。それをまともに受けとめちゃって、この人がこれだけ言ってくれるんだから、歌手になれるんじゃないかって思っちゃったんです。のど自慢は友人が申し込んでくれたもので、僕が東京へ行くとなった時、同級生たちの間では、“大野は歌手を目指して上京するんだ”という認識になっていました。

 自分は長男なので、本来ならば跡を継がなくてはなりませんでした。でも、親、きょうだいを捨てるような思いで、函館から津軽海峡を渡って、夢を追いかけてきました。夢を掴むまでは、二度と帰れない、といった思いで故郷を出てきたのです。親父やお袋、きょうだいには申し訳ないと思いましたが……」

――1954年春、故郷を出た北島。函館港への見送りは父1人だった。絶対に歌手になってみせる、と心に誓い、両親には歌の学校に通うということで上京を許してもらった。最初の1年は新小岩に住み、土日は隣町の平井にある鉄工所でアルバイトしながら、東京声専音楽学校に通った。

「学校はクラシック音楽を学ぶ所でしたから、なんとか流行歌の歌手になるチャンスをと思っていた頃、新聞で『歌手募集』の広告を見つけたんです。演歌師、流しの募集でした。大久保に稽古場があり、新小岩から大久保まで通うのは大変なので、近所のアパートを紹介されて三畳間で暮らすことにしました。そのアパートの大家の娘が後に女房になるわけです。アルバイトをしながら、テレビの“のど自慢大会荒らし”もしましたね。優勝すると1000円もらえたんです。今なら1万〜2万円といったところでしょうか。そうやって、なんとか生活していました。

 歌手になるために上京したというのに、同級生に流しの姿は見せられないと思っていたんですが、ある日、渋谷の街中で『大野、大野』って本名を呼ばれたんです。渋谷で僕の本名を知っている人なんているはずがない。しらばっくれたんですが、後を追いかけてくる。しょうがなく振り返ると、その声の主は、案の定、同級生でした。『なんだ、歌手になるって言って、流しをやってたのかよ』って言われて、その言葉が耳にこびり付いてしまいましたね」

――もっとも、流しの歌手をするうち、大野青年の歌唱力は噂になり始め、日本コロムビアの関係者から作曲家・船村徹に引き合わされた。そして、門下生を経て、62年に「ブンガチャ節」(作詞・星野哲郎/作曲・船村徹)で念願のデビューを果たした。翌63年には「ギター仁義」(作詞・嵯峨哲平/作曲・遠藤実)で夢にまで見たNHK紅白歌合戦(第14回)に初出場。この年は東京オリンピックを翌年に控え、日本中が熱気に包まれていた。舟木一夫「高校三年生」、梓みちよ「こんにちは赤ちゃん」といったヒット曲が相次ぎ、紅白史上でも視聴率第1位、81・4%という驚異的な数字を叩き出した。歴史的なその大晦日は、津軽海峡を渡ってきた27歳の青年の夢が実現した日となった。

「初出場した時のことは、はっきり憶えていますよ。全然、アガらなかった。本当に不思議なくらい全然。私は颯爽と舞台に出ていって、“選ばれた歌手なんだから、一発ぶちかましてやろう”というぐらいの勢いでした」

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