政治状況を冷徹に認識していた「君主」としての昭和天皇──日本人と象徴天皇(2)

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 前回の記事で述べたように、「象徴」という言葉は近代の日本語において、一般的に使われている言葉ではなかった。その語に意味を与え、肉付けしていったのは、新たに「象徴」となった昭和天皇の行動と言説だった。

 日本国憲法の第1章「天皇」は全8条からなるが、第4条にはこう書かれている。

 第4条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。

 大日本帝国憲法で「統治権を総攬」していた天皇から、「国政に関する権能を有しない」天皇へ。これが戦前との最大の変化であり、「象徴天皇」に課せられた制約だった。

 しかし、実際には天皇は、さまざまな形で国政に関する自分の意思を伝えていた。NHKスペシャルの取材班が、同名の番組を基に書籍化した『日本人と象徴天皇』(新潮新書)には、日本の置かれた状況を冷徹に認識し、時には自らの「政治的影響力」を行使することすら辞さない、君主然とした昭和天皇の姿が描かれている(以下、同書の記述に従って記す)。

戦後も「内奏」を要求

 1947年6月、新憲法下で初めての内閣が誕生した。社会党の片山哲を首班とする連立内閣で、外務大臣は外交官出身の芦田均。芦田は日本を国際社会に復帰させるため、連合国側と一日も早く講和条約を結ぶべきと考えていた。その2カ月ほど前にはマッカーサーが記者会見で日本との早期講和を提唱、占領の終結を匂わせていた。

 その芦田は就任直後から、外交の状況を説明するよう昭和天皇から再三、求められるようになっていた。しかし、新憲法の制定にも深く関わった彼は、昭和天皇の求めに疑問を感じ、しばらく態度を留保していた。

 天皇が要求したのは「内奏」と呼ばれる政務報告である。これはもともと、大日本帝国憲法下で行われていた慣習だった。最終的な裁可を求める「上奏」に対しては、天皇は異論を差し控え、内閣に従うことを旨としていた。実際には例外もあったが、基本的には「それが立憲君主のあるべき姿だ」と昭和天皇自身は考えていたようである。しかし、「上奏」の前段階ともいうべき「内奏」の際には、「御下問」という形で政治的影響力を行使していた。昭和天皇は、その「内奏」の継続を戦後も要求したのである。

 芦田はそのとまどいを、日記にこう記している。

「新憲法になって以後、余り陛下が内治外交に御立入りになる如き印象を与えることは皇室のためにも、日本全体のためにも良いことではない。だから私は内奏にも行かないのである。然し、御上の思召とあれば行くべきだと決意して、来週月曜日に参内する旨を言上させた」(『芦田均日記』1947年7月22日)

 外務大臣に就任して2カ月。芦田は初めて内奏に出向き、講和に向けた交渉の中身などを30分余りにわたって説明した。これに対して天皇から「御下問」があった。

「米ソ関係は険悪であるというが果たしてどうなるのか」

 芦田はマッカーサーの説を引きながら、「米ソの開戦はpossibleではあるがprobableではない(可能性はあるが起きそうにない)」と説明している。当時はまさに、冷戦が勃発した時期にあたる。そうした状況を受け、天皇は自らの考えをこう伝えたという。

「日本としては結局アメリカと同調すべきでソ連との協力はむつかしいと考えるが」

 天皇は、冷戦下の日本外交は対米協調路線で行くべきだと考え、それを内閣に伝えていたのである。芦田も昭和天皇の意見に全面的に同調した。

マッカーサーにも伝えていた自身の考え

 昭和天皇は、自身の考えをマッカーサーにも直接伝えていた。

 芦田外相に内奏を求める2カ月前の5月6日、昭和天皇はマッカーサーと通算4回目の会見に臨んでいた。2人はこの日、憲法で軍備を持たなくなった日本の安全保障について協議している。

 天皇は「日本が完全に軍備を撤廃する以上、その安全保障は国連に期待せねばなりませぬ」との前提を述べる一方、米ソが拒否権を行使する国連には事実上期待できない旨を伝え「日本の安全保障を図る為にはアングロサクソンの代表者である米国がそのイニシアティブをとることを要するのでありまして、その為元帥の御支援を期待しております」と、かなり踏み込んだ発言をした。

 これに対してマッカーサーは、国連への期待を示しつつ、「米国の根本観念は日本の安全保障を確保する事である。この点については十分御安心ありたい」と応じている。

 また、この年の9月にアメリカ国務省に届けられた「琉球諸島の将来に関する日本国天皇の意見」(通称「沖縄メッセージ」)には、「天皇は、アメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している。天皇の意見によると、その占領は、アメリカの利益になるし、日本を守ることにもなる」と記されている。

 この「沖縄メッセージ」の存在が公表されて論議を呼んでいた1979年、天皇は侍従長の入江相政にこんな言葉を漏らしている。

「アメリカが占領して守ってくれなければ、沖縄のみならず日本全土もどうなったかもしれぬ」「ソ連も入らず、ドイツや朝鮮のような分裂国家にならずに済んだ」
(『入江相政日記』1979年4月19日)

「あれしか方法がなかった」というのが32年後の天皇の感慨だったということになろうか。この発言から、天皇の懸念が憲法をめぐる問題ではなく現実の「共産主義の脅威」だったことが分かる。同時に、「アメリカの占領によって日本は守られた」という思いを戦後もずっと抱き続け、日本の安寧を願いつつ、明に暗に自らも手を尽くそうとしていた姿も浮かび上がるのである。

デイリー新潮編集部

2017年12月25日掲載

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