“ババア”という罵りの意図は? 騙し合うことと信じ合うことは表裏一体『監獄のお姫さま』第7話

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本作における「“ババア・ブス”問題」

 さて、ここで本作における「“ババア・ブス”問題」(筆者が今命名しました)について考えてみたい。劇中ではこれまで何度となく、カヨたちのことを第三者が「おばさん」と呼び、そのたびに本人たちは「おばさんじゃない!」と強く否定してきた。それなのにカヨたち自身は「おばさんの正義ナメんなよ!」と自分で言ったりもする。これは、「自分は親のことを悪く言ってもいいけれど、他人に言われると正論でもムカつく問題」(これも筆者が今命名)に似た構造であり、女囚たち自身がみずからを「おばさん」と呼ぶことは良くても、他者に浴びせるような言葉としてふさわしくない、とは私も思う。

 しかし、なぜ宮藤官九郎は意図的にそうした「ババア」「ブス」と罵倒するシーンを盛り込むのか。そもそもふたばは、自分を「ババア」にカテゴライズしていないため、彼女が激烈なパワーワードとしての「ババア」を連発することに状況的な不自然さはない。いずれふたばも老いて「ババア」になる日が来たら、過去に自分が発した言葉が跳ね返ってきて、ため息をつくことにはなるだろうが。

 宮藤が所属する劇団大人計画(主宰・松尾スズキ)は、障害児や殺人などのタブーを積極的に扱う作風で、80年代から現在に至るまで多くのファンを獲得してきた。しかし、大人計画は「面白ければOK」という理由で、そうしたテーマを扱ってきたわけではない。そのテーマから透ける周囲の人間の残酷さ、そのテーマでしか描くことのできないどうしようもないこの世の不条理を描いてきたのだ。

 そこで生まれ育った劇作家・宮藤官九郎がそのことを理解しないまま、ある意味での女性蔑視の罵詈雑言を本作で用いているとは、筆者には思えない。確かに、笑いの対象としてはタブーはこの世に存在する。でも、そのタブーについてどうしても言わせなくてはならない部分で俳優にその言葉を言わせることができなくなったら、芸術家としては終わりだ。だからどうか視聴者には、表面的な「ババア」に憤ることなく、なぜ2017年にもなって「ババア」が連呼されなければならないのか、世の中の状況を含めて改めて考えてほしい。

 私は劇中で繰り返される「ババア」を、痛快にも不快にも思っている。その割合が、視聴者によって異なることももちろんわかっている。それでもやらざるを得ない、やらなければ元女囚たちが、婚約者を陥れのうのうと社長の座に収まり続け、いわば男性社会での成功者である板橋に復讐するという物語を成立させ得ないと宮藤自身が判断したのだと信じたい。

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