「正しくなければテレビじゃない」時代のお笑い番組の難しさ 保毛尾田保毛男が炎上したワケ

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ジョークのルール

 さて、話を本題に戻そう。「保毛尾田保毛男」問題だ。先に述べたように「ホモ」という表現は、差別用語に値するという見方が強い。つまり「女子力」と同様、PCの観点からすると「ホモ」という侮蔑用語を使うのはNG、というのはごもっともな批判であると言える。

 山口さんは、「『おネエ系』とか『おカマ』とか、日本では揶揄するかのようなコメディタッチで語られることが多いセクシャリティだが、海外に出た場合には、相当程度気を付けたほうがいい。こういうタイプのジョークはウケないどころか、反感を買いうる。セクシャリティは人格の根幹に関わることだから、それを冗談のネタにするのは好ましくない」と忠告する。

 とはいえ、差別を逆手に取ったジョークもアメリカにはもちろん存在する。しかしそれは、ある一定のケースに限られるという。

「よく観察すると、人種差別をジョークにするのは黒人コメディアン、ユダヤ人をジョークにするのはユダヤ人コメディアンであることに気がつく。白人コメディアンが人種をネタにした場合、黒人のそれとは全く異なり、笑いではなく、怒りを生むだろう」

 まさに、「保毛尾田保毛男」が批判される理由は、ここにあると言えるだろう。おそらく石橋貴明は同性愛者ではない。むしろ普段の彼の振る舞いは、マッチョで古典的な「日本男児」である。その石橋が「ホモ」をネタにするのは、「白人コメディアンが人種をネタにした場合」に近いということだ。

 しかし同時に山口さんは、いきすぎたPCへの警鐘も鳴らす。

「表現面を規制するポリティカル・コレクトネスは、表層部分に現れた差別を徹底的に排除した。もともとは、表だって見えるところから差別をなくして、人々の意識を変えようとしたのが、PCの動きだったのだろう。ところが逆に、PCは確かにそこにある事実を、単なる表現の問題に矮小化してしまった。うわべを綺麗に取り繕うことで、どす黒い差別意識に蓋をする。しかし建前を整えても、本音レベルでの差別がなくなったわけではない」

 いきすぎたPCに息苦しさを感じたアメリカ国民が選択したのは、「本音爆発」トークを撒き散らすトランプ大統領だったことは記憶にあたらしい。

 時代が変われば、笑いも変わる。かつてフジテレビは「楽しくなければテレビじゃない」とのたまった。しかし30年前と今では、人権意識も笑いに対する視聴者の目線も大いに変わっている。この点に、フジテレビが無頓着だったのは間違いないだろう。「確信犯」だったのならば、社長が謝罪する必要はないのだから。

 もちろん、公のメディアが差別表現をし、傷つく人がいることは許されるべきことではない。

 ただ一方で、アメリカ流のPCを日本人がそのまま受け入れていくということについては考えたほうがいいだろう。

 大切なのは「正しくなければテレビじゃない」とでも言わんばかりにフジテレビを糾弾し、差別表現をすべて批判し即刻蓋をすることではない。視聴者ひとりひとりがどうして傷つく人がいるのか、何が問題なのかを、自身の頭できちんと考えることなのではないだろうか。

デイリー新潮編集部

2017年10月4日掲載

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