80年代「トヨタ」は米国圧力になぜ打ち克てたのか 大物密使「ケイ菅原」の存在

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朝鮮戦争でも

 今年初めに就任したドナルド・トランプ大統領によるトヨタ自動車への批判は日本で大きな衝撃を巻き起こした。ツイッター上でトヨタのメキシコ工場新設を「とんでもない」と切り捨て、米国で生産しないのなら高関税をかけると警告し、米企業幹部との会合では日本市場の閉鎖性にまで言及した。その語り口はまるでかつての日米貿易摩擦、中でも洪水のような自動車輸出が槍玉に挙がった80年代を思い起こさせる。

 そして日米開戦前夜を彷彿とさせたあの時代、米国での目や耳としてトヨタを支援したのが菅原だった。

 彼の名前を初めて聞いたのは、かつてニューヨークで会った元OSS工作員からビジネスで成功を収めた日系米国人の仲間がいたと教えられた時である。

 ケイ菅原は1909年、日系2世として米西海岸のシアトルで生まれた。小さい頃に両親と死別して苦学の末にカリフォルニア大学を卒業、通関業を始めて成功するが、真珠湾攻撃で日米が開戦すると財産を没収され他の日系人と共に強制収容所に送られた。そこで彼はOSSにリクルートされて日本軍へのプロパガンダ工作に参加する。

 終戦後も米情報機関との関係を持ち続けて、朝鮮戦争ではCIA(中央情報局)からジェットエンジン製造に必要な金属、タングステンの確保を依頼されている。この時、東京を訪れた菅原は右翼の児玉誉士夫を通じてタングステンを入手、米国へ密輸するのに成功した。その後は石油・海運業に乗り出してフェアフィールド・マックスウェルを設立し、数十隻のタンカーや関連会社三十余りを抱える一大企業群に成長させていった。

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