追悼・日野原重明さん 瀬戸内寂聴さんの若々しすぎるデート

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 日野原重明さんが105歳で亡くなられた。100歳を過ぎてなお現役として活動してきた日野原氏だけに、数多くの人とかかわり、数多くの人の支えとなってきたのは言うまでもない。これから当分は、日野原氏とつながりのあったさまざまな人が、故人の人柄を偲び、思い出を語ることになるのだろう。

 作家の瀬戸内寂聴氏は、日野原さんとの思い出を新著『生きてこそ』に収録している。2002年、日野原氏と「デート」を楽しんだときのエピソードである。当時、日野原さんは90歳、瀬戸内さんは80歳と10歳差のカップル。そこで描かれているのは、余りにも若々しい2人の姿だ。その元気さを知るだけで、勇気づけられる方もいるかもしれない。また、「才能は死ぬまで開花できる」というメッセージは、高齢者に限らず励みになるものだ。

 追悼の意味を込めて、「百七十歳のデート」と題されたそのエッセイを全文掲載する。

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百七十歳のデート

 先日、日野原重明先生と二日にわたるデートをした。日野原先生は聖路加国際病院の理事長であり、同名誉院長でいらっしゃる。『生き方上手』という御著書がベストセラーになり、早くも五十万部を越え、まだまだ売れつづけそうだ。テレビでも引っ張り凧で、先生はそれにもにこにこ顔で出ていらっしゃる。

 何年か前、一度数人の会でお逢いしたが、親しくゆっくりお話しする機会にはその後恵まれなかった。今度ぜひお逢いしたいという私の望みが聞き入れられて、日野原先生が、ある日、寂庵へ御来駕という光栄な運びになった。京都での会に御出席のついでということだった。寂庵ではスタッフ一同緊張して、朝から掃除をし、草むしりをして、打ち水もすがすがしくお待ちした。
 スタッフの一人が、「足して百七十歳のデートですね」とからかう。私が満八十歳になったばかり、日野原先生は丁度私より十歳御年長の九十歳である。約束の時間より二十分も早くお着きになった。嵯峨野をドライブしてきたとおっしゃって気軽にタクシーから降りられた先生の身のこなしの若々しさに、まず一驚する。長く座るのだけは苦手と伺っていたので、急きょ、大正レトロのような椅子の畳敷の部屋をこしらえた。

 先生はいたく寂庵がお気に召し「大体、写真や書いたもので想像していくと、実物は想像を必ず下まわるのだけれど、寂庵は私の想像よりずっといいイメージでした」と、開口一番喜ばせて下さる。
 三時間ほど、休む閑もなく、先生十、私二くらいの割合で話しつづけ、飽きることがない。「老いとは衰弱ではなく成熟するものだ」という自説をいきいきと話して下さる。
   
 翌日は私が東京の聖路加国際病院を訪れて、つづきのデートがある。何しろ、九十歳で八十歳の私と同じくらいの過密スケジュールを楽々こなしていらっしゃるのだ。私の八十歳のスケジュールも、人はみな驚いて人間じゃないようにいうが、九十歳の先生のスケジュールを拝見したら卒倒するであろう。階段は足で上り下りし、空港の動く道路に乗らず、その横を足で歩き、動く道路の上を足早に歩いている人より一歩でも速く着くのが御自慢だという。

 人間は死ぬまで自分の才能を開発できるし、死は終わりではないとおっしゃるのは、九十九歳で亡くなった宇野千代さんと同じ意見である。
 
 広い病院の中も御自分で隈なく案内して下さり、夕方、対談が終わると、その足で日本橋三越に開催中の、私の「源氏物語展」まで見たいとおっしゃったのには、驚嘆してしまった。会場では、来場者たちから握手攻めに会われ、にこにこ応じられている姿は慈悲の菩薩であった。

 七十五歳以上の前向きの人たちを集めて「新老人の会」をつくられた。もちろん、私は入会して会員にしてもらっている。
 
 二人の怪老人のデートにつきあった四十歳の男性編集者の方がのびてしまった。

デイリー新潮編集部

2017年7月18日掲載

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