香山リカ氏も「講演中止」に 百田尚樹氏は「言論弾圧」をこう考える

国内 社会

  • ブックマーク

Advertisement

■香山リカ氏の講演も中止に

百田尚樹氏

 相次ぐ「講演中止」が波紋を呼んでいる。今月10日に一橋大学で行なわれる予定だった作家・百田尚樹氏の講演が、反対運動の結果、中止に追い込まれたのに続き、今度は27日に江東区内で行なわれる予定だった精神科医・香山リカ氏の講演会の中止が発表された。

 百田氏の講演中止については主催者側に脅迫めいた「要請」があったことがすでに明らかにされている。香山氏の件については、主催者が「当日の健全な進行を妨げる内容」のメール、電話が寄せられていて、来場者に迷惑がかかること、安全が確保できないことが予想されることが理由としている。これを見る限り、やはりかなり強い形で反対の声が寄せられたことは想像に難くない。

 講演も言論活動の一つならば、「講演中止運動」もまた言論活動の一つだから許容されてしかるべきだ、といった考え方を示す人もいる。百田氏の講演会中止に関連して、漫画家・小林よしのり氏は自身のブログで「言論弾圧ではない」という主張を述べている。その理由は、以下のようなものだ。

「真の『言論弾圧』とは、権力が民間人の言論を弾圧することを言う。

民間人の批判や圧力で、講演会が中止に追い込まれる場合は、主催した奴らが腰抜けだったということに過ぎない。

信念もなく、客が呼べそうだと、単なるお祭り感覚で呼ぼうとしただけだから、批判に対応できずに、腰砕けになっただけだろう」(6月6日付ブログ)

 この論理でいけば、香山氏の講演中止もまた「言論弾圧」にはあたらないことになるのだが、百田氏はどう考えるのか。すでに自身の講演中止については、語っているが、さらに改めて見解を聞いてみた。

 ***

■櫻井よしこさんも被害に

 先日(20日)、私がレギュラー出演している『真相深入り! 虎ノ門ニュース』(DHCシアター)という番組にジャーナリストの櫻井よしこさんが、緊急でゲスト出演してくださいました。私の講演中止事件を知って、一言言わねば、とお考えになったようです。

 櫻井さんは、この一件について、「これは大学を舞台にした言論弾圧」だと断言し、厳しく批判しました。そして、過去には慶応大学で李登輝元台湾総統の講演がやはり圧力で中止に追い込まれたことの他、ご自身の受けた被害についても語ってくださいました。

 櫻井さんの講演会に対して、おそらくは左翼側の組織的な「抗議活動」が主催者側に集中したことがありました。「慰安婦」に関する櫻井さんの過去の発言が問題だ、というのが抗議する側の理屈でした。櫻井さんもまた、講演中止に追い込まれた経験があるのです。それも一度や二度ではありません。

 私や櫻井さんが共に抱いた疑問は、もしも「リベラル」「左翼」とされる人たちが同じ目に遭ったときに、朝日新聞等は、私のときとおなじようなスタンスでいるのだろうか、というものでした。おそらく、「言論への弾圧だ」と大騒ぎするのではないか――と。

 そんなことを番組で語っていた矢先に、香山さんの講演中止が報じられました。

 意外なことに、朝日新聞等の扱いはあまり大きくありませんでした。

しかし、私の件が直前になかったら、もっと大きくなったのではないか、という気がしてなりません。仮に香山さんの件だけを問題視すれば、「なぜ百田の講演中止との扱いが違うのだ」という批判が予想されます。それに答えられないからこそ、香山さんの件も大きな問題とされなかったのではないか、と思えてしまうのです。

■ヴォルテールの言葉

 しかし、そもそも本来、講師の思想やスタンスは、問題の本質とは関係がありません。

 講師が誰であろうと、基本的に講演が中止に追い込まれるようなことは、好ましくない、ということを言論に関わる人間は共通の認識とすべきだと私は考えています。

 フランスの哲学者・ヴォルテールに、「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という有名な名言があります。私は、これに心から賛同します。

櫻井さんも、「百田さんの問題は、日本国の根幹にかかわることだ」と仰っていました。

 私は香山さんについて詳しくは知らないのですが、おそらくは私とはかなり異なる立場の方なのだろうと思います。私のことをあまり好きではない気もします。

 しかし、だからといって、私は講演中止について当然だともざまあみろとも思いません。今後、私が香山さんの発言を批判することはあるかもしれませんが、発言の場を奪えといった主張をするつもりはないからです。

 このようなことを言うと、「お前は沖縄の新聞2紙を潰せといったくせに」といった批判が必ず寄せられます。しかし、これはそもそも筋違いで、事実に基づかない批判です。

 これまでに何度も説明したので、簡単に触れておきますが、その「問題発言」とされるものは、自民党議員を対象にしたクローズドでの勉強会でのものです。しかも、「あの二つの新聞社は本当はつぶさなあかんのですけども(笑)」と冗談まじりに言ったに過ぎません。これは録音も残っています。

他人に「つぶせ運動」を推奨したわけでもなければ、具体的な準備に入ったわけでもないのです。

 そして繰り返しますが、あくまでも私的な集まりでの冗談です。

 この発言を問題視する人たちは、その後、「テロ等準備罪」について猛反対をしている人とほぼ重なっています。そして、「内輪の集まりで、上司を殴りたいといっただけで警察に逮捕される!」といった懸念を表明していました。そういう人たちが、なぜ「私的な集会」での「冗談」をことさらに問題視するのか、どういう風にご本人たちの中で整合性がついているのか、私にはまったく理解できません。

 ちなみにこの「つぶさなあかんのですけども」という発言は、なぜか朝日新聞などには「絶対につぶさないといけない」という発言に「加工」され、さらに同紙の英字ニュースでは「あらゆる手段を使って廃刊にしなければならない」という表現にまで捏造されました。

■主催者を責められない

 講演中止を求めるのも言論活動の一種であり、主催者は毅然とした態度を取ればいいのだ、という方もいるようです。小林よしのりさんもそのお一人でしょう。

 しかし、それはやはり程度問題ではないでしょうか。たとえば1本の電話、1通のファクス程度で取りやめたのならば、過剰反応だと思います。

私の件でいえば、主催者の学生たちには、私には脅迫としか思えない言葉が伝えられていたと聞いています。

 それに対して、屈したからといって「信念」がないとか、「腰抜け」「腰砕け」と学生を批判することに私は違和感があります。これは「いじめられる側にも責任がある。いじめられたら、殴り返すくらいの強さを持て」と言うようなものです。

そういう考えの方がいることは知っていますが、それもまた程度問題なのです。軽いいじめには立ち向かえる力を身につける必要があるでしょうが、大勢から暴力を受けている子供にそんなことを言って、何か良いことがあるのでしょうか。

だから私は、学生さんたちに「信念を強く持て」と説教をするつもりにはなれません。

 香山さんの件では、江東区の社会福祉協議会が中止の決断をしたようです。その経緯は知りませんが、彼らに対しても「信念」を持て、とか「腰抜け」「腰砕け」などと言うのも酷な気がします。そのように主催者を責めることは結果として、どんどん言論の場を不自由にし、狭くすることにつながるからです。「とにかく無難な講師を呼ぼう」となることが、言論の自由の観点で見た場合に、決して良いこととは思いません。

 なお、民間の働きかけは「言論弾圧」ではない、という主張もよくわかりません。どうネーミングするかどうかは別として、そういう行為を許容するのならば、暴力団が新聞社に脅しをかけることもまた「民間による働きかけにすぎない」ということになってしまいます。

小林さんは、学生の顔を知らないから「腰抜け」と言えるのかもしれません。しかし、私は真面目そうな学生さんの顔を知っているだけに、そんな風に責める気にはなれないのです。

 まず責められるべきは、不当な圧力に屈した側か、それとも不当な圧力をかけた側か。私は前者の側にいたいのです。

■著書が店頭から……

 さまざまな言論があり、なかには気に入らないもの、世の中から消えてしまえと思うようなものもあるでしょう。

しかし、そう思ったときには、その意見をオープンに表明すればいいだけです。私は現にそうしています。

発言の場、発表の場をなくしていく方向に進むのは、ヴォルテールの言葉を引くまでもなく間違っています。それは、民主主義国家にとって自殺行為です。

 私の発言や書くものが嫌いならば、どんどん講演や著書、SNSなどで批判なさればいいでしょう。しかし、私の発言の場、著作を世の中から消していく方向に何らかの力が用いられるのであれば、恐ろしいことです。

 関連して気になるのは、私の新著『今こそ、韓国に謝ろう』が、一部の書店で陳列されていないとか、ひっそりと棚に差されていた、という話をあちこちから聞くことです。この本は、発売直後にアマゾンで1位を獲得し、すでに13万部と好調な売れ行きです。

 ところが、読者が書店に行くと見当たらず、店員さんに尋ねたら奥から持ってこられた、とか、全然目立たないところに置いてあった、といった話を発売直後からよく聞きます。

 もちろん、書店さんが、どの本をどう置こうが自由なのですが、一方で、ここまで売れている本で、しかも大量に仕入れていて、バックヤードにはあるにもかかわらず、それに見合う形で並べていない、という話を聞くと、悲しいというよりも怖さを感じます。

 私は、書店員さんのおかげで本屋大賞も取れましたし、街の書店を応援したいという強い気持ちから、全著作を電子書籍化していません。そういう立場は書店さんも理解してくださっていると思っています。にもかかわらず、「禁制品」のような扱いを受けているのだとすれば、何らかの気味の悪さを感じてしまうのです。

2017年6月27日掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。