マチュピチュ初代村長は日本人だった 資料館オープン

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世界遺産マチュピチュ

 天空にニョッキリと突き出た岩山――。南米ペルーが誇る世界遺産マチュピチュをこのゴールデンウィークに訪れた向きも多いはず。

 が、マチュピチュの村長に日本人が就いていた栄えある歴史を知る人は少ない。

 野内与吉(1895〜1969)。彼の功績と人徳を顕彰し、故郷福島県大玉村の温泉旅館「金泉閣」に、GWさなかの3日、「野内与吉 資料館」が開館。遺品数十点が並べられた。

「与吉は、マチュピチュ村のために生涯を捧げたような人。裕福な農家に生まれたが、海外で一旗揚げる夢を実現させようと1917年にペルーへ渡航。今年は100周年。ブラジル、ボリビアなどを放浪しますが、23年頃にペルーのクスコに戻り、国鉄に勤めます」(孫の野内セサル良郎氏)

 線路拡大事業にも携わり、29年にはクスコ〜マチュピチュ間の線路が開通。ペルー人の妻を娶りマチュピチュ村に居を構えた野内は2男2女に恵まれる。

「渡航前に横浜で様々な技術訓練を受けた与吉は、持ち前の進取の気性から、水利事業を立ち上げ、水を引いて畑を作り、水道も通します。水力発電所を設けて村に電気を導入、最初の本格的ホテルを創業、温泉まで掘り当てた。祖父のアイデアは、マチュピチュの生活に大きな恩恵をもたらしました」(同)

 人望厚かった野内は、マチュピチュが正式に「村」に昇格する直前、最高責任者である行政官を務め、48年、村長に就く。

 68年、請われて一度だけ帰郷を果たすが、親族の慰留を振り切りペルーに戻った。資料館の目玉は鉄道のレールを加工して作った精巧な工具。開館セレモニーには在日ペルー大使館から来賓が駆けつけ、館長に就任した野内セサル良郎氏が講演を行った。

週刊新潮 2017年5月18日菖蒲月増大号掲載

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