ホンダの社史には記されない、ヤマハとの「HY戦争」 原付バイク覇権争いの勝者は

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■原付バイクの覇権を争ったホンダ・ヤマハ「HY戦争」血風録(3)

 ヤマハ・小池久雄社長からホンダへの“オートバイ業界の盟主になる”との宣戦布告で過熱した「HY戦争」は、技術合戦から経営無視の販売合戦の状態となる。そして徐々に“終戦”へ。そこに何があったのか、40年を経て振り返る。

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工場の生産能力を上げ、1000人を新規採用(写真はイメージ)

 昭和57年(1982年)、ヤマハは国内150万台、輸出220万台、計370万台の目標を掲げる。工場生産能力を年間400万台に上げ、1000人を新規採用する。

 一方、ホンダはこの年、45機種を発売。毎週1台ずつ新車を出す異状な状況だ。

「まさに戦争だった。敵方の動きを探るため、担当者の性格分析までやった。孫子の兵法から、ランチェスターの法則まで読んで、敵の3倍の兵力があれば勝てるとわかった」(HY戦争でホンダの陣頭指揮を執った入交(いりまじり)昭一郎)

 国内の二輪出荷は空前絶後の300万台を超え、306万1878台に。もちろん出荷台数であり、現実に売れた数ではない。

「遠州のみかん倉庫がスクーターで一杯になっている、といわれていた。それに気付いたスズキの鈴木修社長(当時)は、バイク戦争からの撤退を決めた」(『ホンダ神話』著者でノンフィクション作家の佐藤正明)

 この当時、ヤマハのマリン事業にいた元社員は、

「とにかく在庫をなんとかしろといわれました。同僚には10台以上売った奴もいたけど、私は親戚を頼っても3台しか売れなかった。焼け石に水だったよ……」

 バイクのおまけ、さらには高級自転車のおまけにされるスクーターも出始めた。それでも販売店が乱売できたのは、メーカーからのリベートがあったからだ。

 かつて携帯電話が1円で販売できたのもリベートのお陰だが、通話料で回収できるケータイと違い、バイクは売りっ放しだ。メーカーの資金力に直接響いた。

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