昭和天皇の「がん」告知を巡る医師たちの攻防 隠し続けた侍医団

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■「昭和天皇」玉体にメスが入った最後の474日(2)

 昭和64年(1989)1月7日の早朝に崩御された昭和天皇。前年より窺えたご体調の異変を受け、史上初めて玉体にメスが入ったのは、62年9月22日のことだった。

 東大医学部第一外科・森岡恭彦教授らによる「東大医療チーム」の手術に立ち会った高木顯・侍医長は、回想録『昭和天皇最後の百十一日』(全国朝日放送)で〈膵臓が盛り上がっており、明らかにガンだとわかりました〉とその様子を綴っている。切除した患部の病理検査でも〈間違いなくガン〉という結果だったが、会見で発表されたのは「慢性膵炎」という病状だった。

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昭和の終焉を伝える「週刊新潮」1989年1月19日号

 病理検査を担当したのは、東大医学部病理学研究室の浦野順文教授。その結果を報告した9月25日、東大の総長室で高木侍医長と森岡教授、医師でもある森亘・東大総長を交えて4人での話し合いがもたれ、引き続き病名は秘匿していくとの方針が固まった。

 浦野教授はその後、病名を公表すべしと主張したものの、聞き入れられず。崩御に際して侍医長が、「術後の臨床経過などより勘案し、あわせて病理側の意見を聞いて」最終診断は十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺がん)と発表するまで、検査結果は完全に秘されていたのである。

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■「何ときれいな標本だろう」

 実は、浦野教授自身もすでに肝臓がんに蝕まれており、手掛けた「仕事」の行方を見届けることなく63年1月に55歳で世を去った。その軌跡を、同じく医師である純子夫人が回想する。

「当時の風潮として、がん告知は一般的ではありませんでした。主人の場合は62年3月に肝臓に腫瘍が見つかり、私から主治医の先生に『きちんと告知してください』とお願いしました。医者として毅然と結果に向き合い、自分で人生の最後を決めるべきだと思ったからです」

 国内でのがん患者への告知率は、今でこそ約7割に上るが、60年ごろはほぼゼロに近かった。

「9月25日に病理検査の結果報告をしてから29日の会見までは『何も喋らないでほしい』と言われていたので、マスコミの取材を避けるために4日間、主人とパレスホテルに避難しました。皇居の目の前だから記者の人も大勢いましたけれど、まさかこんな近くにいるなんて思わなかったはず。誰にも見つかりませんでした」

 教授は、殺到するであろうメディアに向け、留守宅に一枚の紙を貼っていた。

「そこには万年筆で『何ときれいな標本だろう』とフランス語で書かれていました。検査結果は誰の目にも明らか、という意味ですが、これを『良性腫瘍』と取り違えたマスコミの方もいたようです」

■信念に殉じた

 侍医団ががんを隠し続けたため、教授は最後まで葛藤を抱えていたという。

「『公人であり科学者でもある陛下には、真実をお伝えすべき』と考えていたのです。主人は日頃から陛下を尊崇し、賜った銀杯を愛用していました。病理検査を任されたことも大変喜んでいました。だからこそ『告知しても、陛下は堂々と結果を受け止められるはず』との思いがあったのです」

 もちろん、方針を変えさせる難しさも承知しており、

「新年早々、主人が亡くなる9日前でした。腹水が溜まって黄疸も出ていましたが、渋谷のNHKまで私と出向き、放映は陛下の崩御後というお約束をしてカメラの前で本当の病状を話したのです。主人は満足そうでした。『自分が死ぬ前に真実を伝えておきたい』と、ずっと口にしていましたから……」

 まさしく信念に殉じたわけである。意見が対立した高木氏は、前掲書で、

〈ガン告知については、百害あって一利なしだと思っています。アメリカなどでは、ガンは告知すべしとさかんに言われていますが、陛下に負担と不安感を抱かせ申し上げても何の利益もありません〉

 と綴る。が、純子夫人は、

「高木先生は、何度か主人のお見舞いにもいらしてくださいました。医者としてのお考えはともかく、互いに感情的な諍いはなかったと思います」

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「昭和天皇」玉体にメスが入った最後の474日(3)へつづく

特集「『昭和天皇』玉体にメスが入った最後の474日 『進行すい臓がん』病状告知を巡る医師たちの攻防」より

週刊新潮 2015年8月25日号別冊「黄金の昭和」探訪掲載

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