史上初めて玉体にメスが入った「昭和天皇」手術 秘匿された「進行すい臓がん」の病状

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■「昭和天皇」玉体にメスが入った最後の474日(1)

 昭和天皇が崩御されたのは、昭和64年(1989)1月7日の早朝。宝算87は記録の残る中では最高齢、また在位期間、即ち「昭和」の元号も史上最長である。一方で医師たちには、ご病状の「告知」という壁が立ちはだかっていた。玉体にメスが入ってからの474日を辿る。

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 いわゆる「Xデー」への序章は、昭和63年9月19日から始まった。この日夜、突如として大量吐血された昭和天皇。前日には体温が38度を超え、大好きな大相撲観戦が取りやめに。その只中の“急変”だった。 

 侍医団のトップである高木顯・侍医長が吹上御所に駆け付けたことがテレビで報じられ、直後から皇居前には報道陣が殺到。前年6月から侍医長職に就いていた高木氏は、当日の心境を、回想録『昭和天皇最後の百十一日』(全国朝日放送)で、こう綴っている。

〈車の中では、「いちばん困ったことが起こった。いよいよいけないかな……」といったことを考えていました〉

 以降、行事、イベントを控えるなど巷は「自粛ムード」に包まれ、一方でメディアの報道は過熱していったのである。

■〈「おかしい」とピンと来ました〉

昭和の終焉を伝える「週刊新潮」1989年1月19日号

 ご体調の異変は、すでにその前年から窺えた。62年4月29日、皇居・宮殿で催された86歳のお誕生日の祝宴。その席で昭和天皇は、食べた物を戻されてしまう。数時間後には吹上御所で落ち着きを取り戻されて大事には至らず、宮内庁も「軽い風邪で体調がすぐれず」との発表に止めたのだが、この時点で“兆し”を拝察していたのは、57年から侍医を務め、当日も居合わせた伊東貞三氏(86)であった。自身の著書『回想の昭和』(医学出版社)の中には、

〈その時は毎日の御公務のお疲れとお風邪の為と称して発表しましたが、医師団は唯ならぬことであると気付いていました。(中略)と言うのは四月二十一日の便の潜血検査で強陽性が出ていたからです〉

Dr.週刊新潮 2017 病気と健康の新知識

 数十年間、窺えなかった反応だったという。それでも、

〈お自覚症状のない陛下にそれ以上の検査を進言することは不可能なことでありました〉(同)

 その上、昭和天皇の体重は前年の61年12月より毎月数百グラムずつ減少していた。

〈「おかしい」とピンと来ました。毎食後カロリーと水分が侍医によって決められ、十時と三時のお茶も正確に測定して飲まれている陛下にとって、体重の変化はネガティブバランスそのものであったからです〉(同)

 異変は、少しずつ静かに進行していたのだ。

■東大医療チーム

 62年7月、昭和天皇は那須御用邸で長期ご静養に入られた。が、現地でもたびたび嘔吐され、意を決した伊東氏は8月下旬、侍従らに精密検査を提案。那須から戻られた直後の9月13日、宮内庁病院でレントゲン検査が行われた。結果、十二指腸に数センチにわたる狭窄が認められ、これが嘔吐をもたらしていたと推察されたのだが、同時に、

〈狭窄の原因はがんである可能性はほぼ百%と考えました〉(同)

 嘔吐は9月になっても止まず、検査翌日の9月14日には「侍医会議」が開かれる。高木侍医長以下、元侍医長や前侍医長らも顔を揃え、「手術すべきだ」と主張した侍医長の意見が通り、歴史上初めて玉体にメスが入ることと相成ったのである。

 腸の通過障害を除去するバイパス手術は、東大医学部第一外科・森岡恭彦教授の手に委ねられ、空前の手術に向け「東大医療チーム」が編成された。

 9月22日の昼に始まった手術は、2時間半に及んだ。立ち会った高木侍医長は、

〈手術の前、私の頭にあったのは、腫瘍ではなかろうかということでした。九月十二(ママ)日のレントゲン検査で、十二指腸の先、小腸の先端部に通過障害があるということまではわかっていましたが、この部位には通常ガンはできません。ですから、良性、悪性はともかく、別の種類の腫瘍だと思っていました〉(前掲書『最後の百十一日』)

 が、早々に“仮借ない現実”と対峙することになる。

〈開腹して自分自身の目で確かめたところ、膵臓が盛り上がっており、明らかにガンだとわかりました。確率的には九〇パーセントくらいかなといった感じです。前年六月のCTスキャナーによる断層撮影のときに比べて、膵臓の一部がおよそ二倍近く、鶏卵大にまで大きくなっておりました。幸い転移はしていませんでしたが、この瞬間、私の頭には、これは困ったことになったとの思いが浮かんできました〉(同)

■「慢性膵炎」と発表

 それでも当初の方針通り、あくまで通過障害改善に徹し、患部切除には踏み切らなかった。終了後は、

〈記者の皆さんにどのように報告するかということについて、あらかじめ打ち合わせしておく必要がありました。富田(朝彦・宮内庁)長官と徳川(義寛)侍従長、執刀した森岡教授、それに私の四人で、さまざまな角度から検討いたしました。(中略)私は臨床医としての経験から、もともとガン告知に反対の立場をとっておりましたから、対外的にはオブラートで包んだ言い方をした方がよいと申し上げました〉(同)

 結果、この日の会見では「慢性膵炎」と発表することで落ち着いた。高木氏は、さらにこう書いている。

〈陛下の場合、医学的に厳密に申し上げますと、炎症性の変化も見られましたし、他方、ガン細胞もありました。ですから、その前半部分だけを発表させていただこうと提案したわけです。

 私の信念は、ガンを告知することはしない。まして、それが陛下のお耳に入ったりしては、具合が悪い。だから、ひた隠しに隠すということでした〉(同)

 併せて病理学的検査のため患部を一部切除しており、

〈手術後、検査しましたところ、やはり間違いなくガンであることがわかりました。ただし、原発の部位については特定できませんでした〉(同)

 90%の不安は、100%の事実へと転じてしまったのだ。

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「昭和天皇」玉体にメスが入った最後の474日(2)へつづく

特集「『昭和天皇』玉体にメスが入った最後の474日 『進行すい臓がん』病状告知を巡る医師たちの攻防」より

週刊新潮 2015年8月25日号別冊「黄金の昭和」探訪掲載

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