日本史上最大の反政府運動 樺美智子をジャンヌ・ダルクにした「60年安保」

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〈全学連、国会構内に乱入〉〈女子東大生が死亡〉 

 昭和35年(1960)6月16日付の朝日新聞の紙面は、前日に勃発した未曾有御の国会デモの話題で占められていた。同時に、警官隊との衝突で命を落とした、ひとりの女子学生の名が日本中に知れ渡ることになる。

 樺(かんば)美智子、享年22。

 後に“ジャンヌ・ダルク”と称された彼女が身を投じたのは我が国史上、最大規模で繰り広げられた反政府運動、いわゆる「60年安保闘争」である。

 この闘争で世界中の注目を集めた全学連は、23年に日本共産党の影響下で誕生する。しかし、武装闘争路線を否定した30年の「六全協」以降、活動方針を巡って全学連幹部と共産党中央との対立が激化。   

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 政治評論家の森田実氏(82)は、この衝突が原因で党を除名された。

「私も若かったので党中央に対して“この野郎!”という気持ちがあった。そこで、全学連で共に活動した島成郎君を書記長として、33年に共産主義者同盟(ブント)を結成したのです」

 以降、ブントのメンバーは全学連の執行部を掌握し、主流派を形成していく。

 歴史の歯車が静かに回り始めた、そんな矢先の“出会い”だった。

「文京区元町にブントの事務所を開くに当たって、私は女性の事務員を探していました。そんな時、東大時代の友人で、後に中曽根康弘のブレーンとなる佐藤誠三郎君から紹介されたのが、樺さんでした。彼女の印象はとにかく“地味で真面目”。無給にもかかわらず、朝9時には事務所に顔を出して、電話番から便所掃除まで嫌な顔ひとつせずに引き受けてくれた。どこか神聖な雰囲気もあってね。誰彼かまわず女性を口説くような活動家たちも、気安く声を掛けられなかった」

“地味で真面目な東大の女子学生”が政治運動に飛び込んだのは、当時の日本で「安保反対」の大合唱が猛威を振るっていたからに他ならない。

 35年1月、岸信介総理と米・アイゼンハワー大統領は新たな日米安保条約に調印する。これに対し、“日本をアメリカの戦争に巻き込むのか”と、「安保反対」の声は日増しに高まっていった。だが、岸内閣は5月20日未明、新条約案を衆院本会議で強行採決するのだ。

「この時点で実質的に安保闘争は終わりました。ただ、運動というのはおかしなものでね。“新条約案が自然成立を迎える6月19日までに何とかしなければ”と、一般大衆のモチベーションは却って高まった」(同)

 熱狂が最高潮に達したのは6月15日。この日、国会議事堂を取り囲むデモに参加した、奥島孝康・元早大総長(76)が振り返る。

「早大のキャンパスから国会議事堂に向かって、シュプレヒコールを上げながら歩いたんです。すると、他大の学生や市民団体が続々と合流して、列がどんどん太くなっていくんだ。“これから凄いことが起きるんじゃないか”という期待感で気分が高揚しました」

国会前には数十万人のデモ参加者が押し寄せた

■雪崩の下敷き

 彼らが国会前に到着した夕刻には、デモ隊は主催者発表で33万人に膨れ上がった。奥島氏が続ける。

「人だかりなんて生易しいものじゃない。ラッシュ時の電車内のようなギュウギュウ詰めの状態が、国会周辺に延々と広がっていました。全学連の幹部が“警官隊と一戦交えるから覚悟しておけ!”と叫んでいたな。国会に突入すると言っても、作戦は“おしくらまんじゅう”。スクラムを組んで警官隊もろとも押し込んでいくだけです。警官に分厚いブーツの底で蹴られ、向う脛を真っ赤に腫らしながら踏ん張った。途中、右翼団体のトラックが隊列に乱入してきて、荷台から物干し竿でバシバシ叩かれたことも覚えています」

 当時の学生たちは火炎瓶どころかゲバ棒すら持たず、立ちはだかる警官隊に、最後まで肉弾戦を挑み続けた。そして午後7時過ぎ、ついに“衆議院南通用門”が破壊され、学生たちはひとり、またひとりと国会構内に駆け込んでいく。

 その時だった――。

「隊列が凄まじい勢いで警官隊に押し返されたんです。その衝撃を受けて、雪崩のようにバタバタと人が倒れていった。すでに辺りは真っ暗で、何が起きたのか理解できませんでした。翌日の朝刊を読んで初めて、あの場所で亡くなった女性がいることを知りました」(同)

 この時、群衆の下敷きとなったのが樺さんだった。白いブラウスも紺色のズボンも泥まみれで、力なく地面に倒れ込んでいた。彼女は警察病院へと運ばれたが、やがて死亡が確認される。死因は圧死といわれる。

 追悼デモが相次ぐなか、新安保条約は悲劇から4日後に自然成立を迎える。

 それと引き換えに岸内閣は倒れたが、ブントも派閥闘争の末、解体への道を辿っていくのである。

 森田氏は、60年安保は国民全体が盛り上がりを見せた、最後の学生運動だったと考えている。

「あの時代には大学生が60万人ほどしかおらず、国民全体と繋がりを持たなければ運動にならなかった。一般の人たちも路上でのカンパに応じてくれるほど、我々の運動に理解がありました。だからこそ、樺さんの死は社会全体に衝撃を与えた。60年安保のジャンヌ・ダルクは、その敗北の象徴でもあるのです」

 彼女の両親はすでに他界し、最後の肉親である兄の茂宏さんも2013年、この世を去った。残された義姉の篤子さんによれば、

「その頃、東北大の院生だった茂宏はラジオで美智子の死を知って駆け付けたそうです。それ以降、彼女のことはほとんど家族の話題に上りませんでした」

 悲劇を忘れるため、遺族が呑み込んだ彼女の名は、いまも多くの人々に“あの時代”を思い起こさせる。

特集「伝説となった『全学連』『全共闘』ハイライト」より

週刊新潮 2015年8月25日号別冊「黄金の昭和」探訪掲載

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