往時20歳の最年少職員が語る 東京五輪「国旗」物語〈オリンピック・トリビア! 拡大版〉――吹浦忠正(国旗と儀典の専門家)

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 8月21日まで開かれたリオ五輪。東京大会へのカウントダウンも始まった。開催準備に当たっては既にトラブルが相次いでいるが、先人たちの精神は生かされているのか。1964年大会に最年少職員として関わった吹浦忠正氏が「国旗」にまつわる秘話を明かす。

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1964年、東京五輪における「国旗」にまつわる秘話を吹浦忠正氏が明かす

 あれは3軒目の飲み屋を出た時だったでしょうか。東京五輪の開会式が行われる1964年10月10日。時刻は午前3時近かったと思います。夜空を見上げると、雨が上がって嘘のような満天の星。「天の恵み」に、私は思わず身震いしました。

 前日、10月9日は午後3時頃から土砂降りの大雨。当時の開会式は荒天なら中止で、順延はありません。雨脚は日が暮れても強まるばかりで、「この2年間は何だったのか――」と、組織委員会の式典課にいたメンバーはみな打ちひしがれました。どうせなら飲み明かしてやろう、と、その夜、メンバーは誰からともなく、まず四谷、続いて新宿の居酒屋へと流れました。最後に残った3名が高田馬場の飲み屋でクダを巻いていた頃、きっと雨は上がっていたのでしょう。東京五輪の開会式は今日行われる。歴史的瞬間に立ち会えるという興奮が身を襲ってきました。式典課は国立競技場に朝6時の集合です。かくして私は歴史的瞬間をほぼ「二日酔い」で迎えることになりました。

――半世紀前の“その日”を振り返るのは、小誌(「週刊新潮」)で「オリンピック・トリビア!」を連載中の吹浦忠正氏(75)である。長らく難民問題に携わり、また、国旗と儀典の専門家として、数多くの書物を著している吹浦氏は、52年前の東京五輪に組織委員会の専門職員として携わった経験を持つ。当時23歳。最年少の職員だった。

 私が組織委に加わったのは、東京五輪の2年前、1962年秋のことです。まだ早稲田大学政経学部の学生でしたが、国旗の研究に没頭し、本を2冊出していました。五輪では、開閉会式、表彰式はじめ、毎日国旗が掲揚されます。しかし、当時は日本に専門家はおらず、私が呼ばれたのです。

 面接試験では、事務総長に「英国旗の付いている国旗を持つ国や地域の名を挙げよ」と問われ、「バルバドス、バミューダ、ローデシア、近場では香港、あとはカナダ、オーストラリア……」などと挙げていったところ、「もう結構、キミは本物だ」とそれだけで採用。国旗に関わる一切を担当することになりました。動かした予算は当時で1億2000万円。よくぞ20歳そこそこの若者にあんな大事を託したと、諸先輩の勇断に改めて敬意と謝意を表明しなくてはなりません。

――老害と官僚主義が目立つ現在と比べ、当時の組織委が如何に若さとチャレンジ精神に充ち溢れていたか。その吹浦氏の初仕事は、意外な“場所”から始まった。

 最初の仕事は、各国旗のデザインの確定です。東京五輪に参加予定だったのは、108カ国。細部に至るまで、各国の国旗の正しい形、色、図柄は何か、を追求しました。五輪憲章では各国旗を同じサイズにせよと規定されているので、縦横の比を統一しなければなりません。しかし、「星条旗」は10:19、「ユニオン・ジャック」やソ連の国旗は1:2といった調子でバラバラ。それをデフォルメして2:3とし、案を策定しました。

 そのために国内外の専門書を16冊も集めました。当時、式典課は、現在の迎賓館赤坂離宮の中、羽衣の間に置かれていましたが、洋間ですから、床で大判の専門書を開くことはできません。そこで私は、6畳と8畳の和室がある巣鴨の「逆さクラゲ」、今で言うラブホテルに5日間泊まりこみ、本を広げて職員と旗屋さんとで議論したのです。行き詰まると、気分転換のために、隣にいらっしゃった“お客さん”にお茶を出しに行ったりしたものでした。

■開幕10日前の“合格”

――デザインの確定に約3カ月。次に取り組んだのは、旗布の選択である。

 有力だったのはナイロン、ウール、そしてエクスラン(アクリル合成繊維)です。頭を悩ませたのは素材の優劣だけではありません。

 ある日、前触れもなく私の前に現れたのは、選手団長秘書だった「フジヤマのトビウオ」古橋廣之進さん。古橋さんは大同毛織(現・ダイドーリミテッド)にお勤めで、営業の名刺を出して“ウールを使ってくれ!”とおっしゃいます。それだけで学生服の私にはプレッシャーでしたが、数日後、今度は体操の小野喬さんも現れました。小野さんは前回のローマ五輪の金メダリストで、東京五輪では選手団の主将を務めた方。東洋レーヨン(現・東レ)勤務で、ナイロンを熱心に勧めたのです。しかも、私が同郷と知ると、故郷の秋田弁で口説きにくる。これには参りました。

 しかし、公平な審査をしないわけにはいきません。それぞれ2×3メートルの大きさでスペイン、グアテマラ、メキシコの旗を試作してもらい、15日間、耐用実験を行いました。結果は、ウールは強風で裾が破れ、ナイロンは雨で染めがにじみます。他方、東洋紡が開発したばかりのエクスランは実績があまりないものの、強度、染色、風合いともによく、これを採用しました。後年、小野さんとお会いした時には“いや、あの時は参ったよ”とぼやかれたものです。

――最大の難関はこの後だった。デザインと旗布が決まり、組織委は、各国国旗の試作品を作り始めた。これをそれぞれの国のオリンピック委員会に送り、“承認”を求めることになるのだが――。

 当時は、メールも何もありませんから、各国へ試作品を航空便で送って承認を求めました。直行便のある国でも1週間程度はかかった時代。返事が来るまでに1~2カ月はかかります。多くの国からは了解との返事をもらいましたが、中には「紋章をもっと大きくせよ」「青の色はもっと明るく」「同封の資料に依るように」といった注文が来たものもありました。

 異文化交流の難しさをこの時ほど実感したことはありません。例えば、インドの国旗はサフラン、白、緑の三色が用いられていますが、日本では馴染みが薄いため、「サフラン色」の微妙な色合いがわからない。OKが出るまで何回もやり取りをすることになりました。

 一番苦労をしたのは、アイルランドです。アイルランドの国旗は、緑、白、橙の三色からなる。この緑の色みにどうしても納得してもらえないのです。見本を送ると「もっと緑を淡く」と言うので、再度送ると、「もっとグレードを高く」。7回目になっても承認を得られません。残り1年、半年……と開会式は迫り、焦りが募る中、7回目の返信には「緑は私たちの誇り。それを忘れないでほしい」とありました。考えてみれば、アイルランドは実に森の美しい国。緑の深い国です。そこで、思い切って緑を手染めにしてみると、8回目にしてようやくOKが得られたのです。それが開会式のわずか10日前のこと。スレスレの“合格”でした。この逸話は再来年度から小学校「道徳」の教科書に掲載されます。

 当時は私も若かったし、焦りもありましたから、返事が来る度「いい加減にしろ!」と怒っていたものです。しかし、今考えれば、アイルランドはケルト人の国ですが、長らくイギリスの支配下にありました。彼らにとって、国旗の中で唯一ケルト民族を表しているのが、緑です。あの“こだわり”には、国旗に込められた民族の誇りや象徴性が端的に表れていたと思います。それに比べ、日本人は日の丸に果たしてそれほどの思いを感じているのでしょうか。甚だ心もとなく感じます。

■怒鳴り込んだ右翼

――「日の丸」のデザインを確定させるのにも、「秘話」があった。

 当時、日の丸のデザインには明確な決まりがなかった。首相官邸や国会で、実際に使っているものを測っても、メーカーが違えばみな違う状況だったのです。

 当時有効だった国旗に関わる法令は1870(明治3)年1月27日の「太政官布告第57号(商船規則)」だけでした。「縦横比7:10、円の直径は縦の5分の3、円の中心は旗面の中心から横の100分の1旗竿側に寄る」というもので、お雇い外国人からの入れ知恵でもあって、これほど複雑になったのではないでしょうか。

 そこで、組織委で独自にデザインを考えました。当時、若手グラフィックデザイナーとして売り出していた永井一正さんらが、「円の直径が縦の3分の2」という日の丸を発表しました。これには「古いデザインのイメージを刷新できる」「勢いがあっていい」などと、デザイン委員会も賛成。メディアでも好評で、毎日新聞が「組織委、国旗を変更」と大見出しで1面に載せたのです。

 すると、「勝手に日の丸を変更するとはけしからん!」と、右翼の大物が、赤坂離宮に怒鳴り込んできました。「川島正次郎さん(自民党副総裁)の紹介で来た」と言い、手には「血判状」とやらを持って、ひたすら罵声を浴びせてくるのです。上司は「すみません」と謝るばかり。若かった私はがっかりしましたが、その“先生”を正面玄関まで見送る際、「ちょっと測らせていただきます」と街宣車の「日の丸」にメジャーをあてたら、円が縦の5分の4という、とても大きな日の丸でした。それを指摘すると、「やかましい!」の一声を発し、砂煙を上げて帰りましたが、結局、日の丸は元の「縦の5分の3」という寸法で作製しました。

 ちなみに、1998年の長野冬季五輪で私は組織委の儀典担当顧問となり、この時は「永井提案」に準じた日の丸を採用しました。34年を経て、かつての願いを全うできたわけです。

――紆余曲折を乗り越え、すべての国の国旗を確定させた吹浦氏。しかし、難関はまだ続く。

 国旗の掲揚にあたっても心配がありました。逆さまに揚げないという当然のことがとても重要だったのです。

 実は、新装なった国立競技場で1958年に開催された第3回アジア大会の時、女子円盤投げの表彰式で中華民国(台湾)の「青天白日満地紅旗」が逆さまに揚がってしまいました。大会幹部は、新橋第一ホテルの宿舎を訪ね、選手団長に土下座をして詫びたそうです。ですから、東京五輪の組織委員会から辞令をいただくときに、「とにかく逆さまには絶対に揚げないように」と厳命されました。

 試行錯誤の末、国旗掲揚塔のロープの上部に金色の雌金具、下部には銀色の雄金具を付け、それに対応して旗の上部に金の雄金具、下部には銀の雌金具を付けることにしました。決して逆には嵌らないように工夫したのです。もちろん目視も怠らず、結果、大会期間中、逆さまに国旗が掲揚されることはありませんでした。

開会式直前の吹浦氏(本人提供)

■「旗屋さん」の涙

――こうして迎えた冒頭の「二日酔い」の開会式の後も、さまざまな出来事があった。

 期間中、体操や柔道、「東洋の魔女」の女子バレーなど、屋内競技では日の丸が数多く揚がりましたが、国立競技場では、競技最終日まで日の丸がはためく機会はなかったのです。メインスタジアムで、精魂込めた旗を見ることが出来ない――と諦めかけた最後の競技・男子マラソンで円谷幸吉さんが3位に入りました。最後の最後で掲げられた日の丸を見た時には、胸が震えました。

 男子マラソンで陸上競技はすべて終了。旗はもう必要ないので、私は控室を訪れ、軽々連覇を果たしたアベベ・ビキラにエチオピアの国旗を渡しました。42・195キロを走った直後なのに少しも疲れを見せないアベベは、皇帝の親衛隊らしく、直立不動で恭しく両手でそれを受け取りました。今でも脳裏を離れない光景です。

――大会期間中、国旗が変った国もあった。「北ローデシア」地域として参加した今のザンビアである。イギリスから独立を果たしたのは、閉会式当日の10月24日だった。

 独立はザンビア時間の午前0時。日本では閉会式の日の午前6時でした。事前にイギリスを通じて国旗の情報を入手していた私は、まさにその時刻、代々木にあった選手村の宿舎に新しい旗を持って向かいました。

 宿舎に入ると、祝宴をしたのか、部屋にはウイスキーの空き瓶が転がっていました。ほとんどは寝ていましたが、起きていた2~3名の選手に「Congratulations! Zambia comes into being!」と声をかけながら新しい国旗を渡すと、彼らは私の手から奪うようにそれを取り上げ、歓声を上げて喜びました。最後はみなで抱き合ったものです。

 東京五輪と国旗のことを振り返ると、必ず思い出すことがあります。膨大な枚数の国旗を作製していただいた「旗屋さん」の一つ、「国際信号旗」(大阪府)の三宅徳男社長のことです。

 いかにも「旗屋の旦那」という雰囲気の三宅社長が、組織委員会に来て打ち合わせをしているうち、ふいに、

「オリンピックの国旗は全部、平和のため。わしらは若い時分、戦争のための旗ばかり作りよってに」

 きらびやかなシャンデリアの下で、人目をはばからず、涙をボロボロと流したのです。戦時中、旗屋さんは非常に忙しかったのですが、ほとんどが軍隊のための日の丸や旭日旗の作製。それから十数年経って、今度は平和のために大量の旗の作製を任されたのです。「只でもやる」と大変な熱意を見せてくださいました。

 オリンピックには、またきっとたくさんのドラマがあるでしょう。次の「東京五輪」に携わる方々は、きっとあのころの私に勝る感動を体験するはずです。

 しかし、翻ってみれば、2020年の五輪組織委には、新国立競技場の建設問題、エンブレムの撤回などトラブルが相次いでいます。

 3年前の五輪開催決定直後、新宿で夕食を取っていると、近くの席からこんな話が聞こえてきました。

「いやあ大変だよ。オリンピックに行くことになっちゃってさ。戻ったら、俺の椅子、あるかな……」

 組織委に出向を命じられた東京都の職員が愚痴をこぼしていたのですが、こんな消極的な姿勢ではダメ。

 20歳そこそこの学生が向う見ずに世界と渡り合い、戦争を生き抜いた老職人が儲けを度外視して「平和の旗」作りに寝食を忘れる――初の五輪開催を成功に導いた精神を思い起こし、「ALL JAPAN」の叡智を結集して大会に当たってほしいと切に願うものです。

「オリンピック・トリビア! 拡大版 往時20歳の最年少職員が語る 東京五輪『国旗』物語――吹浦忠正(国旗と儀典の専門家)」より

吹浦忠正(ふきうら・ただまさ)
1941年生まれ。早大大学院修了、元埼玉県立大教授。現ユーラシア21研究所理事長、評論家。64年の東京、98年の長野五輪で国旗や儀典を担当した。著書多数。

週刊新潮 2016年8月11・18日夏季特大号掲載

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