がん告知から3カ月で急逝…軍事ジャーナリスト神浦氏が訴えていた“肩の痛み”

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「戦いは相手次第。生き様は自分次第――」。人生を左右するがんとの闘病は“最後の日本兵”故・小野田寛郎少尉の言葉のようだ。中国の軍拡問題や混迷が続く中東情勢など、軍事と安全保障の分野で活躍していた軍事ジャーナリストの神浦元彰氏が、5月4日に肝臓がんで急逝した。告知からわずか3カ月。66歳だった。

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「やりたいことはやった。思い残すことはない。運命として受け入れている」

 神浦氏は入院中、達観した様子で妻の八千代さんに話していたという。

 広島県出身の神浦氏は中学卒業後、神奈川県横須賀市の陸上自衛隊少年工科学校(現・陸上自衛隊高等工科学校)に入学。が、3年次に中退し、その後はカメラマンなどを経てジャーナリストとして活動を始めた。

 防衛省関係者は次のように評する。

「自衛隊はもとより、外国軍隊の兵器や装備品に関する知識が豊富で現役幹部も一目置いていました。独自情報による状況分析や観測は時に大きく賛否が割れましたが、常に“現場自衛官の目線”を忘れない指摘は一読に値するものでした」

 1979年に出版された『日本の最も危険な日』がデビュー作で、以降はネットも積極的に活用し、99年には自身のサイト「日本軍事情報センター」を立ち上げたほか、ツイッターでも情報発信を行ってきた。がんが明らかになったのは、熊本地震における自衛隊運用のあり方や日本の武器輸出解禁への懸念など、独自の見解を披露していた最中だった。八千代さんが言う。

「昨年の11月頃、しきりに“右肩が痛い。痛くて堪らない”と言い出して。本人は“いよいよ五十肩かあ。いや、60歳を過ぎてるから六十肩か”なんて笑って話していたんです。それがまさか、がんだなんて……」

 実際、神浦氏は“酒を飲むと痛みが収まるよ”と軽口を叩いていたという。

■「これ、俺の肝臓?」

 神浦氏はこれまで自身のツイッターで、肩の痛みについて2度ほど触れている。

〈最近、「50肩」と同じ症状(痛み)で苦しんでいます。自分でも驚くほど集中力が低下しています。激痛のためと思います〉(2015年12月21日)

神浦元彰氏のTwitterより(2015年12月21日)

〈昨年11月下旬頃より、右肩の激痛に耐える生活です。原因は不明ですが、いろいろな検査を行っています。今日もこれから病院に行きますが、ツイッターを再開できる様に頑張ります〉(16年1月4日)

神浦元彰氏のTwitterより(16年1月4日)

 当時、診察を受けていた病院は“とくに問題はない”と診断していたが、それはまったくの誤診だった。

「神浦は糖尿病も患っていたので、定期的に専門医の診察を受けていました。今年1月にそこで血液検査を受けた際、肝臓の異変を疑われたのです。受診を勧められた病院でCTを撮ると、3㌢ほどの腫瘍が6個、他にも小さいものが幾つも見つかりました。さすがに神浦も“これ、俺の肝臓?”と驚いていましたが、その日のうちに都内の総合病院に入院すると、ステージ4bの肝臓がんと診断されたのです。すでに末期で肺や頚骨の一部にも転移しており、右肩の痛みはその影響とのことでした。同時に、余命は1カ月と宣告されました」(八千代さん)

 治療は放射線と抗がん剤の併用で行われた。が、幸いにも副作用はほとんど出ず、髪も体重もさほど減らずに済んだという。3月と4月には一時退院も許され、12年間連載していた軍事専門誌「JWings」に最後の寄稿を果たすなど、“命の期限”が延びたことで身辺整理を進めることもできた。

「最後は病院でしたが、亡くなる前日に自衛隊の友人が見舞いに来てくれました。すると神浦は右手の指を3本立てて“俺、あとこれだな”って笑うんです。もう3日しか生きられない、と言いたかったようです」(同)

 神浦氏の容体は、翌朝に急変。八千代さんは今後も、夫のツイッターを“足跡”として残しておくという。

「ワイド特集 五月晴れの五月病」より

週刊新潮 2016年5月26日号掲載