漱石に魅せられたグレン・グールド 翻訳者の異なる『草枕』を買い集めた 〈読み巧者10人の私の夏目漱石体験(2)〉

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夏目漱石

 今年「没後100年」、そして来年「生誕150年」を迎える夏目漱石の作品の魅力を、各界の読み巧者たちが語りつくす。タレントの眞鍋かをりさん、紀伊國屋書店会長兼社長の高井昌史氏らが登場した第1回に続く今回は、『草枕』そして『吾輩は猫である』の魅力をご紹介する。

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 漱石に魅せられたのは、日本人に限らない。バッハの『ゴールドベルク変奏曲』などの名演で知られる、20世紀を代表するピアニストのグレン・グールド(故人)もその1人。35歳の時に手にした『草枕』を生涯の愛読書としていたことは、横田庄一郎『「草枕」変奏曲』(朔北社)で詳しく紹介され、ファンの間では知られた話だ。

 日露戦争の最中に温泉地を訪れた画工の「余」』を通して、東西の文学や芸術のあり方を模索した『草枕』。グールドは翻訳者が異なる『草枕』を複数買い集めるほどの愛読者で、それが嵩じて従姉に電話で丸々1冊を朗読して聞かせたり、『草枕』を題材にしたラジオ番組を企画していたという。

夏目漱石『草枕』(新潮文庫)

 一方、作家の嵐山光三郎さんは『草枕』の魅力をこう語る。

「冒頭の『智に働けば角が立つ。情に掉(さお)させば流される……』という一節が有名ですね。漱石の晩年に発表された『こころ』のように、登場人物が自殺に至るような深刻な人間関係も出て来ませんから、中高生向きとも言えるでしょう」

 この作品には、意外な楽しみ方もあるという。

「漱石は五高(現在の熊本大学)の英語教師だった明治30年に、熊本市から『草枕』の舞台となった小天(おあま)温泉までの二十数キロを徒歩で旅しています。その道中には蜜柑が自生していたり、竹林に囲まれて苔生(む)した石畳の小路があったり……。今も作品に描かれた風光明媚な景色が残っているんです。作中に登場する謎の娘『那美』に思いを馳せながら歩いても良いですね」

夏目漱石『吾輩は猫である』(新潮文庫)

■「漱石一流のユーモアがたっぷり」

『草枕』以上に冒頭の一文が有名なのが、漱石初の長編小説『吾輩は猫である』だ。意表を突くタイトルに惹かれて手にしつつも、途中で挫折した経験を持つ人は少なくないかもしれない。

 この作品は、ご存じのように中学校教師の珍野苦沙弥を主人とする飼い猫の視点で人間の世界が描かれている。1905年の発表当初から、『教養人・漱石による教養豊かな作品』などと高く評価されており、機智やユーモアに富んだ諧謔の中に、漢詩や禅語、哲学といった古典的な教養、さらには当時の社会風刺までがぎっしり詰まっている。そのため“漱石初心者”には、なかなかハードルが高そうな印象ではあるが、

「いやいや、そんな心配は要りませんよ」

 と笑って言うのは、三島賞作家の久間十義氏だ。

「苦沙弥先生が西洋料理屋で“トチメンボーを二人前持って来い”と、実在しない料理を注文して知ったかぶりをする店員をからかったり、山芋の相場を知らない妻を『オタンチン・パレオロガス』と小馬鹿にしたり。初めて読んだのは中学生の時でしたが、漱石一流のユーモアがたっぷりで、苦沙弥先生が友人や教え子たちと交わす“大人の会話”には、背伸びした悦びを感じつつ読んでいました」

 歴史作家の関裕二氏が後を引き取る。

「学生時代のアルバイト先に文学少女がいて、『吾輩は猫である』を“漱石の語り口が本当に粋で凄い。漱石は会話だよ”と言っていたんです。それで改めて読んでみたら、それまでの“漱石の作品には暗くて深刻なものが多い”という印象が一変し、その本質はユーモアのセンスにあると気付かされました」

 新潮文庫版で610ページという大作ながら、一度手に取れば、漱石先生独特の語り口に引き込まれることだろう。

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(3)へつづく

「特集 まもなく没後100年! 生誕150年!『坊っちゃん』に出逢った!『明暗』に学んだ! 読み巧者10人の『私の夏目漱石』体験」より

週刊新潮 2016年4月14日号掲載

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