沖縄メディアに感じた失望と危惧 在沖縄海兵隊元幹部の告白

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 沖縄のメディアが偏向しているのではないか、という指摘をする人は珍しくない。作家の百田尚樹氏のそうした発言が「問題発言だ」として取り沙汰されたことも記憶に新しいところである。

 そして、昨年まで在沖縄米海兵隊の政治顧問を務めてきた、ロバート・D・エルドリッヂ氏もまた、その偏向問題に大きな危惧を抱いている一人だ。

 エルドリッヂ氏は、これまでにもしばしば「NOKINAWA」(「反対」しか言わない沖縄)のままでいいのか、という問題提起をしてきた。そして今回出版された著書『オキナワ論』の中で、沖縄メディアの問題点を率直に指摘している。(以下、『オキナワ論』より引用)

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■沖縄メディアへの失望と危惧

 2009年に海兵隊に着任する前は、「沖縄がかわいそうだ」「もっと沖縄の声を聞くべきだ」という認識がありました。実際にそうした趣旨の論文を「中央公論」(2001年10月号)や「論座」(2002年9月号)に寄稿したこともあります。

 しかし今では、そういう考えこそが沖縄に「NOKINAWA」、原理主義的でわがままでしかない姿勢を生み出すのではないか、と反省もしています。

 基地のフェンスの内側から初めて反基地運動を見たとき、私は衝撃を受けました。それが「平和」や「反戦」というキレイゴトで括られるような世界ではないことが分かったからです。現在では、反基地運動は利権構造そのものと化していて、「沖縄はかわいそう」と言う人はある意味で利用され、洗脳されているのだと考えています。

 もともと私は学者の頃から琉球新報とも沖縄タイムスとも、非常にいい関係がありました。どちらかと言うと新報とは深いつながりがあって、必要な記事や資料を送ってもらったり、こちらも本や論文を送ったり、幹部の中には家族ぐるみで付き合って一緒に旅行したり、大学に呼んで講演していただいたり、私のゼミ生を沖縄に連れていって意見交換をした方もいます。

 当時から長い間、手間暇をかけて私は県内メディアと米軍の架け橋の役目を果たしてきたつもりです。メディアの質問に米軍側がきちんと答えない時は、よく調べてもらえないか、もっと丁寧に早く答えるべきではないかと進言し、メディアの批判が正しければ、四軍調整官や私のいた部署に対して改善策を講じるように助言もしてきました。学者の時は第三者ですから、かえって報道部から煙たがられていたぐらいだと思います。

 悩ましいのはお互いの見解の溝がなかなか埋まらないことでしたが、それでも仲介者としてできるだけのことをしてきました。しかし、沖縄問題に関わっている人たち、米軍をはじめ日本の政治家、官僚、自衛隊、政策関係者など様々な人たちとの交流が増えるほど、メディアに書かれていることと現実が違うことが見えてきました。

 特に米軍の中で仕事を始めると、「あれ?」という疑問形だったものが、いかにおかしな報道か、これでは左翼や沖縄独立を唱える政党の機関紙みたいで信頼できない、と否定せざるを得なくなっていきます。研究者としては当初はほぼ無条件で信頼していたものが、関わりが深まるにつれて崩れていくのはショックでしたし、他方では、間違った考えを押し付けられる沖縄の人たちこそ気の毒だという思いが強くなりました。

 海兵隊に入ってからは、新聞に毎日目を通すのも私の仕事の一つでした。しかし、事実に基づいてよりよい関係を作ろうと使命感を持って仕事をすればするほど、ほとんどうつになりそうでした。もともとそうだったのか、私にだけ見えていなかったのか、いずれにせよ米軍に対する見当はずれの批判が多くて、かつて自分が尊敬していた地元二紙がこの程度の新聞になってしまっていることが悲しかったのです。

■「トモダチ作戦」も評価せず

 最近になって私は地元メディアの報道をあらためて精査してみましたが、米軍に好意的な報道はまったくと言っていいぐらい存在せず、とてもみじめで悲しい気持ちを思い出すことになりました。

 例えば「トモダチ作戦」は東日本大震災で実際に運用されたことで、在日米軍が災害時にどんな協力ができるのか、そのモデルケースになったはずですが、被災地での支援活動でさえ沖縄の地元紙には意地悪くしか取り上げられませんでした。

「どのようなレトリックを使おうとも、県民を危険にさらす普天間飛行場やその代替施設は沖縄にいらない」(琉球新報、2011年3月18日付)

「震災の政治利用は厳に慎むべきだ」(沖縄タイムス、同3月22日付)

 震災直後の被災地で苦しむ人々を助けようと、米軍が真剣に任務に取り組んでいた時期の論評とはとても思えません。「命(ぬち)どぅ宝」(命こそ宝もの)は忘れてしまったのでしょうか。

 震災後私が作った、沖縄の海兵隊員たちの家に東北の子供たちをホームステイさせるプログラムや、島民と隊員たちとの心温まる交流も、沖縄で報道されることはごく稀です。「しまぬくくる」(沖縄人の心)の美しさを説きながら、これほどの悪意を他者に向け続け、自分と異なるものを排除しようとする地元紙の「ちむぐくる」(まごころ)は一体どこにあるのでしょう。

■海兵隊員の美談は無視

 2015年1月、地元の老人男性の命を救った海兵隊員を称える式典がありました。男性は2014年暮れ、沖縄中部の金武町の国道で自転車から転落、キャンプ・ハンセンに向かう若い軍曹が安全な場所に移動させ、蘇生させた。司令部で行われた式典で、軍曹は「他者を助けるという考えからでした」と短く答えました。報道関係者も招待していましたが、地元住民の命が救われたにもかかわらず、やはり取材も報道もありませんでした。

 地元メディアは日米両政府どちらかにマイナスの印象となる情報はどんどん掲載する一方、プラスの印象を読者に与えるものは載せない(あるいはそもそも取材しない)傾向があります。私は何も、米軍関係者による犯罪を報道しないでほしいと主張したいのではなく、人道的な行為や青少年の育成に資するような、いい側面を持つ話も等しく県民に伝えるべきだと言いたいのです。

 読者の方々も沖縄を訪ねることがあれば、地元の新聞を開いてみてください。米軍について常に悪くしか書かれていないことに驚くはずです。またテレビのニュース、あるいは書店で沖縄関係の本棚をご覧になっても似たような印象を持つことでしょう。しかし、そうした状況と沖縄県民とは区別して考えていただきたいのです。

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 エルドリッヂ氏は、『オキナワ論』について、

「本書に対しても、沖縄のメディアやその周辺から『沖縄差別だ』『沖縄ヘイトスピーチだ』といった声が挙がることでしょう。私は自らの主張に対して反論があることを拒否しません。しかし、具体的な事実誤認を指摘するのではなく、感情論や印象論でレッテル貼りをするような言論には価値を認めません。批判のある方は、あくまでも個別の事象に関するファクト(事実)についてご指摘いただきたいと思います」

 と語っている。冷静な議論が望まれるところである。

デイリー新潮編集部

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