尼崎事件・角田美代子の“右腕”「李正則」が語った転落の人生[暴力担当の供述調書120枚](1)

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 兵庫県尼崎市で大量殺戮事件が発覚したのは2012年10月だった。他人の家庭に介入し、次々命を奪った角田(すみだ)美代子(享年64)。その「暴力担当」で、義理のいとこにあたる李正則(41)の120枚に及ぶ供述調書には、戦慄の人心掌握術が綴られていた。

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尼崎にある角田美代子が住んでいた自宅。最上階の左側

 8人の命が奪われた一連の「尼崎事件」は、依然5人以上が行方不明のまま、2014年3月に捜査が終結。主謀者の角田美代子も12年暮れに留置場で自死を遂げ、真相は闇に葬られたかと思われた。が、その“手はず”は辛うじて残されていたのだ。

 共犯者らの裁判が続く中、10月8日には“右腕”として美代子を支え、3件の殺人罪を含む最多の10の罪で起訴された「マサ」こと李正則に、検察は無期懲役を求刑。法廷で本人は、170センチそこそこながら100キロ近くありそうな体躯を縮こめるような素振りをみせ、色白の顔には疲労がくっきりと滲んでいた。そして11月13日に神戸地裁で開かれた判決公判では、平島正道裁判長は検察の求刑通り無期懲役を言い渡した。

 11年11月、尼崎市に住む大江和子さん(享年66)の死体を遺棄した容疑で美代子らとともに逮捕された正則は、当時の取り調べでは最小限の供述しか残していなかった。が、他の共犯者が一連の事件を自白し、遺体発見によって犯行が次々と裏付けられていく局面を迎え、ついに「落ちた」のである。

 今回、初期の段階で警察官によって作成された複数の供述調書と、正則の直筆による「自供書」を入手した。それらの文面からは、美代子とそのファミリーによる極悪非道の所業が、生々しく迫ってくるのだ。

■〈間違いありません〉

「尼崎事件」の人物相関図

 尼崎の民家で遺体掘り出しの捜索が始まってから2週間余り。12年10月30日付の供述調書では、大江さんの事件で神戸刑務所に収監されていた正則が、初めて「大量致死」を認め、

〈地中から3人の遺体を発見したことで、世間が大騒ぎになっていることを拘置所の新聞を読んで知りました。(中略)記事を見た瞬間、頭が真っ白になりました。(中略)もう隠し通せないことは分かっています〉

〈全ての事件に関して、角田家のトップに君臨している角田美代子の指示で行われていることは間違いありません〉

〈(一連の事件は)財産を奪い取るため〉

 などと供述していたのだった。

■山口組系暴力団事務所に出入り

 在日韓国人の母親のもと尼崎市に生まれた正則は、父親の顔を知らぬまま母方の祖母に育てられた。野球特待生として進学した香川県の高校で甲子園を目指していたところ、無免許運転で自主退学となり、転校を余儀なくされる。卒業後は尼崎に舞い戻り、「住友金属」の工場に勤務。そして母親や継父から、給料の無心はおろか消費者金融への借金まで強要されるうち、転げ落ちていった。

 97年には覚せい剤事件で逮捕され、少年刑務所に服役。出所後は地元の山口組系暴力団事務所に出入りするようになり、同じ頃、背中に龍の入れ墨も彫っている。

 その後は溶接工などを経て、27歳で結婚。が、前後して今度は母親が覚せい剤事件で服役することに。その間、継父から美代子と内縁の夫・東こと鄭頼太郎を紹介されたのが運のつきだった。以来、硬軟織り交ぜた術に搦め捕られていく――。

「特集 尼崎の大量殺害事件発覚から3年! 殺戮の女帝『角田美代子』暴力担当の供述調書120枚!」

週刊新潮 2015年11月19日号掲載

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