トロ率70%! 銀座に出店した“近大マグロ”の野望

社会

  • 共有
  • ブックマーク

 昭和5年、北大路魯山人は「東京ほどまぐろを食うところはあるまい」(「鮪を食う話」)と書いた。それからおよそ85年経った東京・銀座のコリドー街。多くの人気飲食店がしのぎを削るこの場所で、2013年12月のある日、午前中から70名ほどの人が行列をつくった。世界初の完全養殖クロマグロを提供するレストラン、「近畿大学水産研究所」のオープン日だ。

 完全養殖とは、孵化から成魚の産卵までのライフサイクルを人為的に管理する技術のことだ。トロ率7割に仕上げた魚体からとれる、中トロの身のなめらかさと脂の甘み、そしてきめ細かな繊維も目に鮮やかな赤身の旨みも、まさしくホンマグロの味わいだ。すでに大阪で、行列の出来る人気店として多くの関心を集めている同店の「近大マグロ」は、マグロ好きが多く集う東京の食通たちに、驚きとともに受け止められた。

 その近大マグロの故郷は、太平洋をはるかにのぞむ和歌山県串本市。本州最南端のこの地に、その名も近畿大学水産研究所の大島実験場がある。大小30の養殖生け簀を擁し、養殖魚の研究生産を行うこの施設で、完全養殖クロマグロは育つ。

 一本1億円を超すなど、市場でときに驚くべき値段にはね上がる「海のダイヤ」クロマグロは、その生態も規格外だ。太平洋クロマグロの場合、フィリピン沖で孵化した稚魚は黒潮に乗り太平洋を約8000km横断し、カリフォルニア沿岸を時計回りにして、再び産卵域へと回遊する。そのスピードも時速80キロ(一説には時速150キロ)というすさまじさだ。

 しかし、それは近年わかってきたこと。近畿大学水産研究所が、観測機器の精度も充分でない1970年から始めたクロマグロ研究は、生態データのほとんどない手探りのスタートだった。当初、研究員は漁業者とともに洋上で天然のマグロ稚魚を捕獲しては、ひたすら生け簀での観察を繰り返した。

 途中、10年以上産卵のない時期が続いたり、稚魚が繰り返し大量死するなど、アクシデントが次々に研究者を襲った。それから32年後、小さな研究成果の積み重ねが、徐々に生態の謎を明かし、ついに不可能といわれた完全養殖成功という偉業を引きよせた。その不屈のトライ&エラーの記録は、林宏樹著『近大マグロの奇跡―完全養殖成功への32年―』(新潮文庫刊)に詳しい。

 農業や畜産と比べ、漁業はいまなお多くを天然資源に依存している。しかし、世界的な魚食ブームでクロマグロの争奪戦が激しさを増すなか、国際的な漁獲規制を上まわるスピードで、マグロそのものが急減しているという報告もある。海洋汚染による魚体への有害残留物も無視できず、食の安全の観点からも、高級魚の養殖化への流れはさらに加速するだろう。消費者自身の天然物信仰を見直す必要もあるだろう。仔魚生存率の向上や生産コストの削減など、なお課題も多いが、近畿大学水産研究所が築いた完全養殖技術は、世界の漁業のありかたを一変させる可能性を秘めている。新マグロ時代の扉が本格的に開いた。

デイリー新潮編集部