“異次元の画力”でSNSを震撼させる「釣りキチ三平」の漫画家・矢口高雄さん…「教科書に自分の絵が載ったのは嬉しかった」のひと言に込められた“長く険しい軌跡”
伝統的な絵画は上で、漫画は下
私は小学生の頃から「増田まんが美術館」に200回以上通っているが、矢口氏の原画を目にするたびに、圧倒的な凄みに息をのんだ。これこそが芸術ではないかと思ったものである。ところが、周囲の評価は芳しいものではなかった。地元の日本画家が、「こんなものは誰でも描ける」「描きこみすぎて画面が死んでいる」などと言っていたことを覚えている。
当時は、日本画や洋画などの伝統的な絵画は上で、漫画は下、というヒエラルキーが存在していたように思う。矢口氏の絵を褒める大人が少なかったのは、漫画というだけで最初から低俗なもの扱いしていた人が多かったためだろう。実際、現在のSNS上の誹謗中傷を超えるような、ここに書くのが憚られるほどの罵詈雑言で嘲笑する政治家や文化人がいたのである。
ところで、昨今私が評価しているのが、90年代に同人誌即売会などを中心に活躍し、のちの美少女ゲームの作風に大きな影響を与えた七瀬葵氏の絵である。そこで、私はSNSに「七瀬さんの絵は将来文化財になると思う」と書いたら、「そんなものがなるわけがない」と、漫画好きや専門家を称する人からも否定的な意見が寄せられた。
そのコメントが非常に興味深い。SNS民は、かつて矢口氏の絵を中傷していた秋田の人たちと、びっくりするほど同じことを言っているのだ。なかには、一字一句レベルで同じことを言っている人までいた。具体的な内容を書くのは控えるが、画期的なものほど評価されるまで時間がかかるのだと感じる。悲しいことだが、歴史は繰り返されるのだ。
漫画を教科書に載せることにこだわる
矢口氏は漫画家として異色の経歴の持ち主である。高校を卒業後、地元の羽後銀行(現:北都銀行)に就職。最初の赴任先は羽後町の西馬音内支店で、以来12年もの間、銀行員として勤務していた。しかし、矢口氏は漫画家の夢を捨てきれず、70年に30歳で上京。漫画家は10代でデビューするのが当然といわれていた時代に、非常に遅いスタートを切った。
当時の銀行員は今以上に地域密着型の仕事であるため、衝撃は大きかったようである。「嫁と子供がいるのに銀行員をやめるなど考えられない」などと言っている教育者がいた。確かに銀行員という安泰な立場を捨てて漫画家になるのはリスクが高いが、それ以上に、漫画家という職業に対する評価がまだまだ低かったといえる。
そんななかで、矢口氏は漫画と漫画家の地位向上に尽力した。その一つが学校の教科書に漫画を載せることだった。矢口氏にとって“子供の頃からの夢”と語るほど、強いこだわりがあったようである。夢は現実のものとなり、90年代には矢口氏のエッセイだけでなく、イラスト、そして漫画が教科書に掲載されたのだった。批判する人もいた一方、評価する人もいたのである。
今でこそ教科書に漫画が載るケースは珍しくないが、悪書と見なす人が多かった時代にかなり革新的な出来事だった。筆者が生前の矢口氏にインタビューした際も、「教科書に自分の絵が載ったのは嬉しかったし、漫画が認められたと思った」と笑顔で語っていたのが印象に残っている。漫画を教育の場に広めた点も、矢口氏の大きな功績といえるだろう。
クリエイターが堂々と胸を張れる社会を作った
先日亡くなったちばてつや氏が文化勲章を受章するなど、漫画が日本の文化として正当に評価されだしたのはここ10~15年ほどの間であり、まだまだ日が浅い。一昔前は漫画やイラストを描いていれば、親から「そんなものを描かずに勉強しなさい」と叱られ、画材を捨てられる人も多かった。今では子供の創作活動を親や学校が手厚く応援するようになったと聞く。
SNSを覗くと、最近のアマチュアの漫画・イラスト好きは、自身を“クリエイター”と称している。絵を描くことを誇りに思っているようだ。このように若手が胸を張れる時代になったのは、真摯に作品を描き、表現の自由や漫画家の地位向上に努めてきた矢口氏をはじめとする先人たちの努力があったからこそである。このことを忘れてはならないだろう。
私は秋田で漫画が虐げられてきた歴史を見てきたので、様々な思いを感じてしまうのであるが、とにかく、海外で矢口氏の絵が評価されたことを素直に喜びたいと思う。矢口氏ほど秋田県の美しい風景や文化、何より秋田弁を全国に広めてくれた漫画家は他にいないと思っている。インバウンド観光客からも注目されている日本の原風景を、魅惑的に描き出した矢口氏の評価が高まっていくのは確実であろう。






