「金くれ」談志さんの大胆な要求に大物政治家の粋な返し 石原慎太郎が振り返る昭和

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細川護熙と立川談志

 いわゆる「裏金問題」や、簗和生前農水大臣の「予算カット問題」、あるいは中道の「交付金ネコババ問題」等、政治とカネにまつわる話題は絶えない。

 昭和の時代、政治と利権はより露骨に結びついていたのは否定できない。その現実をある程度世の中も受け入れていたのだ。それを大らかと捉えるか、腐敗と捉えるかは人それぞれだろうが。

 作家で政治家でもあった故・石原慎太郎さんが遺しておきたいと考え、編集者を相手に語った話をまとめた『昭和の風雲児』には、石原さんと細川護熙元総理、そして故・立川談志さんの選挙を巡る秘話が収められている。中でも談志さんに関する「政治とカネ」のエピソードは、さすがというべきか、何とも意表をつく展開となっている。

 語られているのは、1971年の参議院選挙。当初、石原さんが所属する自民党がある候補(本では実名)を全国区の候補者として推していたが、さまざまな問題があり、別の候補を立てざるを得なくなった。そこで白羽の矢が立ったのが細川元総理である。ところがそれもすんなり進まず、次に浮上したのが談志さんだったのだ。以下、同書から当時の貴重なエピソードをご紹介しよう。

 ***

 当時彼(注・細川氏)は前の衆議院選挙に故郷の熊本から自民党の公認なしで出馬したものの落選し、次の選挙を目指しているということだった。本人に会うと「是非お願いしたい」と言う。

 さいわい霊友会の支援をとりつけることも出来たので、細川さんを立てて参議院選挙に向けて走ることとなった。

 ところが、実際の選挙キャンペーンが進むうちに、またしても問題が起こった。東京在住の私の仲間たちが、細川さんを毛嫌いしたのだ。

「なんであんな気取ったやつの応援をやらなきゃならないんだ。嫌だよ」

 彼らに言わせれば、細川は上っ面でしかないし、あんたのためにもならない、利用されているだけだ、とのことだった。しかし、そう言われても今さら私はどうにもしようがなかったが、彼らは、ならば俺たちはあんたのために少しは役に立つはずの別の候補を勝手に擁立するから、それを認めてくれという。

 そこで彼らが候補としたのが、立川談志だった。

落語家の友情

 談志とはそれまでにも面識があり、また私のことを思ってくれる連中がやることを止めるわけにもいかないので、私としても了承するほかなかった。

 これを聞いて、今度は細川さんが、

「二人も立てるなんて。私はどうなるんですか」

 と怒り出したので、

「君は大丈夫だよ。君の当選は決まっているから。一人くらいいいじゃないか」

 と宥(なだ)めたものだった。

 投票日のことで、よく覚えているのは、開票結果を待つ間、深夜近くに下町の老舗の若旦那や談志の仲間の噺家たちが寿司屋で集まっている光景だ。三遊亭圓楽、月の家圓鏡、桂伸治といった当時の人気落語家連中が集まって、緊張して座っていた。そこで談志だけが妙に胸を張って、

「大丈夫。俺は絶対に当選する。真打ってのは最後に出るもんだから」

 と言うと、圓楽か誰かが、

「そんなこと言ってる場合じゃない」

 と怒りだした。そこに落語家同士の友情が垣間見えた気がした。

 結果として、細川さんは半分よりも上で、談志は本当に最終位で当選を果たした。

 細川さんは当選後、さっさと田中派に入り、あまりつきあいがなくなったが、談志には議員としての仕事を手取り足取り教えることとなり、それ以来つきあいが深くなった。

「金くれ」

「金くれ」

 と言い放った

 思い出すままに当時のことを語ってみよう。

 当選してすぐの時、

「兄さん、俺、金が欲しいからね。あんたはそんな金持ってないから、どこか派閥に入ろうと思う。金くれそうな派閥どこだ」

 そう聞かれて、大平正芳さんを紹介したこともある。大平さんの目の前のソファーで、談志は寝っころがって手を差し出し、

「金くれ」

 と言い放ったものだ。

 もっとも、その時の金はあとで返すことになっていたらしく、利息も取られたという。談志が言うには、

「利息取るなんて大物じゃねえ、といったら、向こうに『いやいや、無利子じゃ、君にちょっと失礼だと思ったから』といい逃れされちゃったよ」

 私が地方の選挙応援に出かけた時に、彼が弟子を四人ほど連れてついてきた。昼飯を蕎麦屋で食べようとなり、見ると彼は蕎麦をツユにつけずにすすっている。

「お前、そんなものうまいのか」

 聞くと、江戸っ子が今際(いまわ)の際に「一生に一度でいいから、たっぷりツユをつけた蕎麦を食いたかった」と言ったという有名な落語の小話を引き、

「あれ有名な古典なんだからね。古典にあるんだから、俺たちは、やっぱり弟子の手前でね、その古典を裏切るわけにはいかない」

 思わず、「お前、バカか」と言ったものである。

(略)

 結局、彼は参議院議員を一期で辞めてしまうのだが、付き合いはその後も続いた。私から見れば、彼は一種の「自我狂」ともいうべき人間だったのだが、私もそういうタイプで、その意味では似た者同士だったともいえる。顔を合わせれば、馬鹿野郎とか何とか言い合うのだが、彼は息子に慎太郎と名付けたという。

「俺ね、兄さんに会って、石炭たかれると、元気が出るんだ」
 
と言われたことがあった。石炭をたく、というのは好き勝手にぼろくそ言われる、ということである。勝手なときに連絡を寄越してきて、会えば、互いに好きなことを言い合う、そんな関係だった。
 
 ***

 二人の交流は、談志さんが亡くなる直前まで続いた。『昭和の風雲児』では晩年、闘病中の談志さんに石原さんが電話をかけた際の貴重なエピソードも描かれている。