「売名行為と思われないか」…「島津亜矢」が明かす熊本地震支援 故郷に飲料水6480本を届けた“歌怪獣”の素顔と、洋楽への挑戦【デビューから40年】
英語の発音にダメ出しを
2年前アレサ・フランクリンさんのカバーアルバムを制作したときは、英語の発音指導も担当するプロデューサーさんに、徹底的に鍛えられました。演歌のアルバムなら、昔から2日間で十数曲を一気に録音することもありました。ですから、最初は「英語だから1日3曲ぐらいかな」と思っていたんです。ところが、とんでもなかった。1日1曲を録るのが精いっぱいで、「ちょっとごめんなさい」と言いたくなるほどでした。
プロデューサーさんからは、英語の発音について何度もダメ出しを受けました。頭では理解しているつもりでも、唇を噛む発音や、Rの発音がうまくできない。1曲歌い終えるたびに精根尽き果てるような状態でした。でも、そのプロデューサーさんは私の性格をよくご存じだったのか、「できないんですね。じゃあ、こっちでもいいですよ」と、わざと妥協するようなことを言われるので、そう言われると、もう悔しくて。「もう一回教えてください」とお願いして、何度も何度も練習しました。ちょうどそのとき、ドキュメンタリー番組の「情熱大陸」に密着取材をしていただいてたんです。スタジオに設置されたカメラに向かって、私、「先生はうるさいです」と文句を言っていましたね(笑)。
平坦な道より険しい道を
――そんな難しいレコーディングを経験して、ご自身のなかで何か変化はありましたか。
やっぱり私は、平坦な道よりも、こういう険しい道が好きなんだなと、あらためて思いました。
うちの母は、昔から「ぬるま湯に浸かっていたら、ぬるま湯のそれなりしかできない。自分の力以上のことをやろうとしたら、一生懸命努力しなくてはいけない」と、いつも言っていたんです。そんな母に洗脳されたのか、私もやっぱりそういう性格になっていたんだなと、あのレコーディングのときに思いました。私にとっては本当に過酷な現場でしたけれど、最後の歌を録り終えたときは、心から嬉しかったです。その経験のおかげで自分自身も成長できましたし、完成した作品は私にとって大きな宝物になりました。
【第2回】では、厳格な母との二人三脚の歌手人生について明かす。30歳で紅白初出場を果たした際、母から贈られたプレゼントとは――。
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