重い後遺症、妻との別離、3億円御殿の売却…昭和の大スター「フランク永井」 死の淵から戻った後も続いた苦難「“息をするのも嫌だ”と言っていたことも」
病院職員と“歌の会”で歌声を披露
その後は、都内や静岡県の病院、自宅などを行ったり来たりしたが、
「永井さんがうちの病院にいたのは、1987年末から1991年初めのことです」
と、東京脳神経センター理事長の松井孝嘉氏が話す。
「私が香川県でやっている病院に、新聞か何かで私のことを知った夫人が、“どの病院に入院してもよくならない。何とか面倒をみてほしい”と電話してきたのです。とにかく、直ぐにでも入院させてほしいという感じでした」
松井氏の病院が海辺にあったこともあり、砂浜を歩いたり、歌をうたうなどのリハビリが行われた。
「職員と“歌の会”を開いたり、スナックを昼間貸し切ってカラオケをしたりしました。ご自分のヒット曲から、他の人の歌まで口ずさんでいました。声は小さかったですが、音程はバッチリ。さすがだと思ったものです。体重も増え、自分の意思を言葉で伝えられるまでに回復しました」
“息をするのも嫌だ”と言っていた
若い頃に米軍キャンプで覚えた、得意の英語を口にすることも。しかし、良くなったのもそこまでが限界だった。
「本人が、リハビリを積極的にやったことは殆どありませんでした。とにかく、すべてが面倒くさいという感じ。“息をするのも嫌だ”と言っていたこともあります。自殺して一時心停止状態になったことで、生きる気力を失ったのかもしれません」(松井医師)
ある音楽評論家は、「永井さんは、野暮とか無様なことを最も嫌う人。自殺を図って、一命を取り留めたことが嫌だったはず」という。だとすれば、リハビリを真面目にやらなかったのも、さもありなんである。
そこに新たなトラブルが起きる。松井医師が続けていう。
「永井さんには、東京から付き添いの人が3人体制でローテーションを組み、病院へは常に2人来ていました。後から姉の美根子さんが、そのローテーションに加わった。夫人は、月に1度くらいの割合で、お見舞いに来ていました。そうこうしているうち、夫人と姉の仲がややこしくなり、双方が弁護士を立てるようになったのです」
今度は夫人が自ら命を
芸能レポーターの石川敏男氏は、こう補足する。
「リハビリには、かなりのお金が必要でした。そのため、夫人は永井さんが伊豆などにいくつも持っていた別荘を処分したのです。ところが、親族の許可なしに財産を処分したとして、夫人と姉ら親族の間でトラブルになったのです」
1991年3月、その確執や看病疲れなどが原因で、夫人が自殺未遂。それに対し、今度は姉が同じ年の6月、「永井を千葉の施設に連れて行く」と言い、松井氏の病院を出たのである。傍で妻と姉の対立を見ていた永井は、さぞ辛かったに違いない。
1992年7月、離婚が成立。永井夫妻には子供もいないため、その後は目黒の自宅に戻り、姉に介護を受けていたという。近所の住人によれば、
「介護士は来ていましたが、お姉さんは近所付き合いをほとんどしていませんでした。永井さんが介護の人の肩を借り、歩く練習をしているのを見かけたことはありますが、もっぱら車椅子での生活でした。ここ10年程は、見舞いに人が来ても、殆ど誰だかを認識できない状態。姉から相手の名前を告げられると、そうとニッコリする程度で、まるで“恍惚の人”でした」
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