パートの主婦がセル画を塗っていた時代も…事件から7年「京都アニメーション」の黎明期をOBが明かす 「当初は大手の下請けで、社屋も老朽化が激しかったですね」
主婦がパートでセル画を塗っていた
――上宇都さんは、まだ京アニの名前がアニメファンの間でもほとんど知られていなかった時代に入社しています。
上宇都:入社したのは1985年の10月、まだ「京都アニメスタジオ」という有限会社だった頃です。ボロボロの二軒長屋で、老朽化が激しい社屋でした。社内にはまだ仕上げと制作の部署しかなく、大手スタジオに頼まれてセル画に色を塗るのが主な仕事。しかも、メインで塗っているのは会社の周りに住んでいる主婦のパートさんです。
最初は、「セル」と呼ばれる塩化ビニールの透明な板の裏からアニメ用の塗料でペイントする仕事で、時おりパートの方から上がってきた仕事のリテイク作業をすることもありました。
――上宇都さんは21歳で入社されたと聞いていますが、当時の京アニは無名の存在だったわけですよね。若手が入るにはなかなか勇気が要りそうですが……。
上宇都:私は1985年の春に大学受験に失敗してしまい、東京に行こうと考え、資金を半年間で貯めようと考えていました。10月に何気なくアニメ雑誌を見ていたところ、京アニのスタッフ募集の広告が出ていたのです。地元にアニメ会社があるんだなと思って応募したら、採用されたという流れになります。
先ほど話したように、当時の京アニは仕上げが主な仕事で、作画部門がありませんでした。しかし、ちょうど作画部門を作りたいと考えていた時期で、絵を描くアニメーター志望で入った私が会社の意向と合致したのです。といっても、当面は仕上げの仕事しかなく、時間の合間を縫って作画の勉強をしていましたが。
――作画部門がないなかで、どうやって絵のレベルアップを図ったのでしょうか。
上宇都:スタッフに、以前作画をやっていたけれど、諦めて制作の仕事をしている人がいたんですよ。その方が以前に受けていた課題をもらって、勉強していました。
私が入ったあとに動画(注:原画をもとにアニメの動きを描いた絵)の部署が生まれ、順調に育っていきました。とはいえ、あくまでも動画も下請けのセクションです。ステップアップして原画を任せてもらうためには、一定の作画スキルが必要でした。東京からアニメーターを呼んで育成を試みたのですが、うまくいかない状態が続いたのです。
第2回【京アニOBが、事件で亡くなったアニメーターの功績を“実名を挙げて”語り続ける理由 「池田晶子さんは年下ですが、ロボットの絵を褒められたことがあります(笑)」】では、京アニOBの上宇都辰夫氏に、放火殺人事件で亡くなられたアニメーターについて語り続ける理由について、詳しく伺いました。













