「最後の日本兵」を発見した「好青年」はヒマラヤ山中に消えた…「会う人は皆ファンになる」と称された鈴木紀夫さんの生涯

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どんな忠告でも破れなかった冒険心

 6度目の雪男捜索の旅だった。京子夫人との新婚旅行もヒマラヤだったが、紀夫さんは1986(昭和61)年11月、家族に手紙を出したきり、消息を絶った。彼はその年の12月中旬、ダウラギリ4峰の中腹4000メートル付近で雪崩にあい、遭難死していたのである。

 その遺体が、ヒマラヤ行きからちょうど1年後の日に見つかったのだった。

「彼からの最後の手紙は“中型の雪男の足跡を発見した。12年前、5匹の雪男を見つけた場所と同じだ。人間ならこんなにユッタリ歩いていないだろう。さすがだ”と発見の喜びで埋めつくされていました。遺体はその場で埋葬し、遺髪だけを持ち帰りました」(国重さん)

 この訃報を知った小野田さんは、たまたまブラジルから帰国中だった。各地を講演中の小野田さんに代わって兄の敏郎さんが語る。

「弟がこちらに帰ってまいりますと、2人は必ず落ち合いまして、私の練馬の家で昔話やヒマラヤの話に花を咲かせていました。紀夫さんは気持ちのいい好青年でしたが、どんな忠告も、彼の冒険心を破ることができなかったんですね」

 ブラジルで牧場経営に励む小野田さんは65歳。ヒマラヤに散って本望だったかもしれない鈴木紀夫さんは38歳の若さだった。

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霊を弔わねば気がすまない

 小野田さんは鈴木さんに発見された後、1974年3月に帰国。だが、過熱報道や日本社会との迎合に苦労したこともあり、1975(昭和50)年4月、兄が牧場を経営していたブラジルに移住した。現地では小野田さんも牧場を開拓し、約10年をかけて苦労の末に経営を軌道に乗せた。

 移住先で日本人会を設立し、初代会長、顧問を歴任した。一方、日本では青少年に野外生活体験を提供・指導する「自然塾」を開き、後に財団化。社会教育功労賞の受賞、大学講師に就任、藍綬褒章を受章など、日本社会への貢献にも心血を注いだ。

 鈴木紀夫さんの訃報が届いたのは、牧場経営が一段落して数年後のこと。小野田さんはかねて紀夫さんに牧場を見てほしいと願っていたが、紀夫さんがヒマラヤに熱中したため先延ばしになっていた。そこで小野田さんは「鈴木君の霊を弔わねば気がすまない」とネパール渡航を決意。この慰霊の旅の様子はテレビで放送され、大きな話題となった。

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