「最後の日本兵」を発見した「好青年」はヒマラヤ山中に消えた…「会う人は皆ファンになる」と称された鈴木紀夫さんの生涯

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日本の恥にだけはなるな

 母親のつね子さんがいう。

「私はどこへいっても、日本の恥になったり、日本政府を困らすようなことだけはするなとしつこく手紙を出してました。幸い、麻薬の運び屋などにならずに済んでよかった」

“小野田さん捜し”に彼がチャレンジしたのはフィリピンがたまたまアルバイトでためた50万円で行ける範囲だったからだ。

 かくして、1974(昭和49)年2月、ジャングル生活30年の小野田さんを発見するわけだが、紀夫さんの冒険心は以後も、消えるどころか、盛んになるばかり。子供の頃からの夢だった雪男捜しにヒマラヤ行きを始めたのである。

 1978(昭和53)年には作家・林房雄氏の養女、京子さんと結婚。1男1女をもうけた。

「“冒険するなら結婚をよせ。結婚するなら冒険をよせ”と紀夫にいつも言っておりましたが、息子によると、ヒマラヤで雪崩にあって胸まで雪につかった時、“京子さんの顔がポッカリ浮かんで、ホレてるな”と気がついたんだそうです。本当に彼女は息子が無収入でもビクともしないシッカリした嫁さんです」(母親のつね子さん)

何度か行かせるのを止めたことも

 鈴木夫妻をひき合わせたヨットマンの国重光熙さんの話。

「紀夫君に会う人はだれでも彼のファンになりますよ。そのぐらい相手のフトコロにすぐ飛び込める邪気のない人柄です。だから小野田さんも出てこれたのではないでしょうか。

 独身時代の彼は北海道で穴掘りやトラックの運転手をしていましたが、結婚してからは千葉中心の生活で、友人の喫茶店を手伝ったり、道路のカッター屋をやってました。就職を斡旋しても“雪男捜しのため、いずれ辞めていくのだから迷惑がかかる”といってすべて、短期の仕事でした」

 紀夫さんの目的は金をためて、雪男捜しのヒマラヤ行きの費用を作ることにあった。雪男は新種のサルというのが持論で、そのために動植物の書物もかなり読んでいたという。

 国重さんが、話を続ける。

「“ヒマラヤ行きは、砂漠やジャングルに行くのとわけが違う。山男でもないのに山を甘く見るな”と反対して、何度か行かせるのを止めたこともあります。しかし、下の女の子が幼稚園に行くようになったからいいだろうと、6年ぶりに1986(昭和61)年9月29日、出かけてしまった」

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