「自分らしく生きる」がツラい――“自分らしさ”の礼賛が万能薬になった社会の落とし穴
「自分らしく」生きることが幸せにつながる――現代社会ではそのような考え方が定着しているように見えます。でも、どうすれば「自分らしさ」を育むことができるのか。また、それが本当に幸せにつながるのか。これは意外に難しい問題です。
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20世紀の中盤、イギリスの社会学者バジル・バーンステインは、ロンドンの労働者階級と中産階級の家庭では、子育てに用いられる言語のタイプ(スピーチコード)が異なることを調査で明らかにしました。
たとえば、子どもが寝る時間になっても「まだ起きていたい」と駄々をこねたとします。労働者階級の家庭では、「子どもはもう寝る時間だ」と言い渡して、有無を言わさず寝かしつける傾向がありました。これは、「子どもは早く寝るもの」というその社会で共有されている文脈を前提に、なぜそうなっているのかはいちいち説明しない言語タイプなので、「文脈限定コード」(restricted code)と呼ばれます。
一方で、中産階級の家庭では、親から子どもに対し「あなたの体は今大きくなろうとしていて、そのためには早く寝て大きくなる時間を体にあげる必要がある。もしいつまでも起きていると小さいままかもしれない。あなたはそれについてどう思う?」といった問いかけがまずなされ、子どもが思考の上でも感情の上でもこの説明に納得することが重視される傾向がみられました。バーンステインはこのような言語タイプを「詳細明示コード」(elaborated code)と名付けます。
さて、現代の日本社会では、詳細明示コードを用いた子育てが良いとされる傾向があります。しかし、文化人類学者の磯野真穂さんは、新刊『社会が壊れるその前に――メアリ・ダグラスの人類学』の中で、詳細明示コードを重視する社会は「個人の疎外」に繋がるリスクがあると警告します。同書より一部を再編集して紹介します。
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「あなたの意思」を問い続ける社会
先日、ある大企業の経営層から、最近の若手社員に対する指導の仕方について話を聞いた。かつてなら「こういう風にやるように」「こうすることが正しい」といった指導が可能であったが、近年そのような指導は押し付け、ともすればハラスメントと捉えられる可能性がある。その結果、「あなたはここで何を達成したいか」「あなたのやりたいことは何か」といった問いかけが代わりに使われがちであるそうだ。社員の自己実現のための支援組織が会社といった位置付けであろうか。「昭和」が悪しき社会の代名詞となって久しいが、「こうしなさい」という指導は、まさに昭和的とされ、避けられる傾向が一部に出始めているのかもしれない。
このエピソードから思い出されるのが、1990年代以降に顕著となった「自分らしさ」の礼賛である。『他者と生きる――リスク・病い・死をめぐる人類学』(集英社新書、2022年)で詳述したが、かつて読売新聞と朝日新聞のデータベースを用い、「自分らしさ」が記事に使われる回数と、どのような文脈でそれが現れるのかを調査した。その結果、80年代にはわずか53回の登場であった「自分らしさ」は、平成の始まる90年代になると約45倍の2374回、2000年代になると約135倍の7175回と指数関数的に増えており、この傾向は時代が下っても衰えることはない。
「自分らしさ」が現れる文脈を見ると、ありとあらゆる問題の解決策として自分らしさが持ち出されていることがわかる。例えばこんな風だ。
Q:高校の部活動。どう部員をまとめたら良いかわからない。
A:「自分らしく」まとめれば良い。
Q:受験勉強がうまくいかない。進路をどうすればいいかわからない。
A:「自分らしく」勉強し、「自分らしく」進路を決めれば良い。
Q:大切な試合を目前に控えている。どうすれば?
A:「自分らしく」プレーすれば良い。
一事が万事この調子である。上記に限らず、重い病気に罹ったとまどい、死に向かう不安すらも自分らしくあることで解決できることが示唆される。これは新聞だけに見られる現象ではなく、政府の指針にも表れており、高齢社会への展望を記した平成28年版『厚生労働白書』(2016年)を開くと、「自分らしく」老いること、たとえ認知症になっても「自分らしく」暮らして最後を迎えることなど、自分らしくあることの大切さが17回も繰り返される。90年代以降「自分らしさ」は万能薬の様相を呈していると言っても過言ではない。
さてこれを踏まえて少し考えてみよう。イギリスの人類学者メアリ・ダグラスは、詳細明示コードは容易に文脈限定コードに転ずると述べる。これは「あなたは何がしたい?」といった問いや、百花繚乱の体をなす「自分らしさ」に答えを見いだそうとする姿勢も同様である。「あなたのやりたいようにやればいい」「自分らしくあればいい」といった言葉がけは、いっけん自分自身で考えることを促す詳細明示コードに見える。しかし、これらの言葉が決まり文句のように使われ始めた時点で、それは字句通りの意味以外の何かを伝える文脈限定コードに転じている。伝統社会の人々がこの儀式は何のためにやっているのかと問われ、「昔から続いているから」「みんながやってきたから」と答える。それと同じような状況が、あなたの意思をひたすら尊重し、自分らしさを讃える私たちの社会でも起こっているのである。「みんなそう言っているから」というわけだ。
ところで、私は2025年8月に俳優の井桁弘恵さんがパーソナリティを務めるラジオ「LOGISTEED TOMOLAB.」に出演し、その時のテーマは「自分って何?」であった。私より一回り以上も年下の井桁さんは、「自分らしくあればいい」と言われると突き放されたように感じることもあると話していた。彼女の感覚は、文脈限定コードと化した「自分らしさ」が何を暗示しているのかをよく表す。それが暗示するのは、流動化し、自分の外側に依って立てるものが何もなく、競争に勝つことによってしか、自分の居場所や価値を見いだすことができないような社会の存在である。私はこのような社会を「能力資本主義」と名付け、「自分らしくあればいい」「あなたのやりたいようにやればいい」という言葉がけさえも、能力資本主義という土壌を肥沃にする肥料となっている面があると危惧している。
※本記事は、磯野真穂『社会が壊れるその前に――メアリ・ダグラスの人類学』(新潮選書)の一部を再編集したものです。











